op.1

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シュツットガルト・バレエ《オネーギン》を観る

11月3日、シュツットガルト・バレエ来日公演、《オネーギン》を観た(振付:ジョン・クランコ)*1。1965年初演、1967年改訂版初演。全3幕。会場は、東京文化会館。3年ぶりの来日となる。全幕で《オネーギン》を観るのは、その時以来、二度目*2

音楽は、クルト=ハインツ・シュトルツェが、ピアノ曲を中心に、「チャイコフスキーの数多くの無名の作品から音楽を集めて」、それらを、オーケストラ用に編曲したものを使用*3。 

客席は、ほぼ埋まっていたようだ(土曜マチネ)。

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関心に即して、感想を述べていこう。 

タチヤーナを踊ったのは、ディアナ・ヴィシニョーワ(Diana Vishneva)*4マリインスキー・バレエからの、ゲスト出演だ。同役は、別に、プリンシパル・ダンサーを務めていた、アメリカン・バレエ・シアターの、フェアウェルでも踊っている(2005-17年在籍)。

彼女の踊りを観るのは、二度目だが、三年前の、ハンス・ファン・マーネン ‘The Old Man and Me’(1996年) だけで、全幕や(広い意味での)古典的な作品は、今回が初となる。所属するマリインスキー・バレエの来日公演でも、2015年、2018年と、不参加だから(それ以前は知らない)、バレリーナとしての芸術性を知る好機と思い、足を運んだ。

伸びやかな脚、自然に伸びてゆく腕。(アンナ・オサチェンコ(Anna Osadcenko)のオリガは、一方、四肢の伸びが窮屈で、無理を感じさせた。)技術は申し分ないが、肉体性で見せる踊りではない。造形が細やかで、各々に意味を感じさせる。それは、造形そのものが、演技となっているが、内実は、踊りが演技の方に近づいており、より現実的に、タチヤーナを彫琢するものだった。

ヴィシニョーワのタチヤーナ解釈は、この夏、世界バレエフェスティバルで観た、アレッサンドラ・フェリ(Alessandra Ferri)のそれと、対照的であったように思う。最後、フェリは、オネーギンへの思いを、振り放すように、彼に、退室を求めたのに対し、ヴィシニョーワは、最後まで、「グレーミン公爵夫人」として振舞ったのが、象徴的だった。思えば、彼女のタチヤーナは、はじめから、「田舎娘」などではなかった。オネーギンの目は──彼女の踊りを観れば明らかなのに──、それが見抜けないくらい、擦れていたのだろう(ちなみに、フェリが踊った、第三幕のパ・ド・ドゥは、解釈に、踊りが伴っていなかった。バレエはバレエという造形芸術であり、「ダンス」でもなければ、「演劇」でもなく*5、「フェリという物語」でもない、というのが、ここでの立場だ)。

 

レンスキーを踊ったのは、ソリスト*6の、マルティ・フェルナンデス・パイシャ(Martí Fernández Paixà)。

第一幕がよかった。単に、芸術的に造形的に──知的に──踊るのではなく、甘く優しい雰囲気を漂わせ、オリガを魅了した(第二幕、オネーギンとの決闘に臨む際、造形芸術として、微塵も見せなかった態度だ)。

パイシャはスペイン出身。2014年、シュツットガルト・バレエの研修生(apprentice)となり、翌年、正団員(コール・ド・バレエ)。2016年に準ソリスト、2017年にはソリストに昇進している*7

 

オーケストラ・ピットには、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。ジェームズ・タグル(シュツットガルトバレエ音楽監督)が指揮をした。

上手い演奏で、バレエに、芸術的に加担していた。しかし、それは、バレエの踊りになぞらえれば、「単に、芸術的に造形的に踊る」ことが、必ずしもできていないような演奏だった。第三幕前には、指揮者にブラヴォーが飛んだが、芸術的には、昨夏の、イングリッシュ・ナショナル・バレエ来日公演《コッペリア》以上のレヴェルを求めたい(指揮:冨田実里)*8

 

終幕後、ヴィシニョーワは、贈られた花束から、赤いバラを抜いて、オネーギンと、指揮者に手わたした。

 

配役表は以下となる。

https://www.nbs.or.jp/publish/news/2018/11/113.html

 

* * * * *

(「劇場で、美に触れたとき、日常では、なかなか出てこない、「本音」が、ふと、漏れることがある。劇場を出たら、日常に紛れて、また、忘れてしまいがちな、大切な言葉。美は、貴い。もし、それが検閲されたら、劇場は、牢獄のように、息苦しくなるだろう」。)

*1:「オネーギン」/シュツットガルト・バレエ団 2018/NBS公演一覧/NBS日本舞台芸術振興会

*2:2015年11月23日、タチヤーナ:アンナ・オサチェンコ、オネーギン:ジェイソン・レイリー、レンスキー:ダニエル・カマルゴ、オリガ:エリサ・バデネス、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮:ジェームズ・タグル

*3:チャイコフスキーには、同じプーシキンに基づく、オペラ《エフゲニー・オネーギン》がある(1879年初演)。しかし、「チャイコフスキーの同名のオペラの音楽を一小節も使っていません」(クランコは、このオペラの音楽を、使うつもりだったが、劇場から反対されたそうだ)。オペラは、2016年10月、ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー・オペラの上演を聴いたことがある。 マリインスキー・オペラの「エフゲニー・オネーギン」を聴く - op.1

*4:1976年、サンクトペテルブルグ生まれ。1995年マリインスキー・バレエ入団、1996年同プリンシパル。 https://www.mariinsky.ru/en/company/ballet/principals/baleriny/vishneva

*5:アンゲラ・ラインハルトは、プログラムで、次のように述べている。「美しいラインも重要だが、演技の重要性もまたそれに勝るとも劣らない。このようにみると、オネーギンはむしろ演劇なのだ」。演技は、バレエを構成する、大切な要素だと思う。しかし、それは、オペラでいえば、演出に相当するものではないか。オペラの中心に音楽があるように、バレエの中心には踊りがある。演出や演技は(美術や照明とともに)、それらと一体化して、オペラやバレエをかたちづくる。だから、《オネーギン》の演技面を列挙して、「はたして、プティパの『眠れる森の美女』について、こんなにじっくり考えられたことはあるだろうか」というのは、モーツァルトを引合いに出して、演出家の仕事をほめるようなものではないか。愛好家として、バレエのコアは、演劇ではなく、バレエであってほしい。また、バレエはダンスの一種でも、その固有性は放棄しないでほしい。 バレエの、ダンスとの向き合い方は、例えば、クラシック音楽で、ベートーヴェンを、ウェーベルンのように演奏した、フランツ・ウェルザー=メスト指揮、クリーヴランド管弦楽団の芸術が、参考になるのではないか。「近代のはじめに、善による進歩があったなら、ウェルザー=メストは、その果てに、それを、もう一度、接続して、調和──善──をはかっているようにみえる。直線的なパラダイムを、円環にとじ、新たな音楽を、提唱しているのだ」。フランツ・ウェルザー=メスト指揮、クリーヴランド管弦楽団、来日公演を聴く - op.1

*6:シュツットガルト・バレエは、プリンシパル・ダンサー、ソリスト、準ソリスト(Demi Soloist)、コール・ド・バレエの四階級制。https://www.stuttgart-ballet.de/company/dancers/

*7:https://www.stuttgart-ballet.de/company/dancers/marti-fernandez-paixa/

*8:公演評は以下。イングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)来日公演《コッペリア》を観る - op.1