op.1

ballet/orchesrta/criticism

フランツ・ウェルザー=メスト指揮、クリーヴランド管弦楽団、来日公演を聴く

ベートーヴェンの場合は当初、交響曲の構造にならいつつ、多楽章形式の弦楽四重奏曲の構成要素としてフーガを取り入れた。後にそれは「本体」と切り離され、序奏(私はここで用いられている主題を「宿命の主題」と呼んでいる)を加えられた。… フィナーレを飾るフーガ。彼はこのフィナーレに、ある種の喜びに満ちた舞曲として「宿命の主題」を組み入れている*1。 ──FWM

… 宿命のボレロ、55。宿命のボレロ、56。…

… Oui. Non. Oui. Non. …

宿命、517。宿命、608。…

                    … Oui. 

よし、カット。音もOK、画もOK。 ──JLG

 

 

先月、6月7日、フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Möst)*2指揮、クリーヴランド管弦楽団(Cleveland Orchestra)*3の演奏会を聴いた。会場は、サントリーホール

楽団を率いる、ウェルザー=メストは、2002年より、音楽監督を務めている。

クリーヴランド管の演奏は、録音でしか聴いたことがなく、気になるオーケストラだった。また、音楽監督の在任期間が長く(芸術的な結びつきが期待できる)、来日も、頻繁ではない(前回来日は、2010年。次の来日公演までに、音楽監督が、替わっている可能性もあり、その場合、両者の芸術的成果を、実演で聴くことが難しくなる)。最後は、曲目が決め手となり、足を運ぶことにした。

ベートーヴェン*4・ツィクルスは、一部ではあるが、過去、二度、聴く機会があり*5、ともに、交響曲第3番《英雄》*6の含まれる日を選んできた。今回は、プログラムに、弦楽合奏による「大フーガ」が組み込まれ*7交響曲第9番も、コンサートで聴いたことがなかったから*8、両方が演奏される、最終日を選んだ。

これらの演奏会は、指揮者によって、「プロメテウス・プロジェクト(The Prometheus Project)」*9と名付けられている。プロメテウスとは、ギリシア神話の英雄の名である。

ウェルザー=メストは、公演プログラムに、三つの文章を寄せている(「「プロメテウス・プロジェクト」にようこそ」、「プロメテウス・プロジェクトについて「善のための戦い」」、曲目解説(九つの交響曲と「大フーガ」))。

ここでは、プログラムを開かず、しまっておき、その由来等、指揮者の思いは、コンサートの感想を述べた後(あと)、検討することにしよう(感想に付された註の多くは、その時、書かれた。無記名の引用文は、原則、ウェルザー=メストによる)。

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ホワイエを抜け、座席へと向かう。

オーケストラ・メンバーは、すでに着席して、音を出している。

サントリーホールは、3月11日に、BBC交響楽団を聴いて以来*10

オーケストラの配置は、下手から、ファースト・ヴァイオリン、セカンド・ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの順に、指揮台を取り囲み、上手後方に、コントラバスが座っている。

コンサートマスターは、ウィリアム・プレウシル*11

 

コンサート前半に演奏されたのは、弦楽オーケストラのための大フーガ(Grosse Fuge)変ロ長調 作品133。1825年作曲。

「大フーガ」は元々、弦楽四重奏曲として書かれた*12

冒頭、はじめの休止。小振りな音楽のまわりで、不安な、違和感が、異様に響いた。

それが何か、演奏が進んで、すぐに気づいた。

ホールの端まで、響いてないのに、その「虚ろ」は、音楽を、外から厚く、縁どって、ホール全体を、満たしていた。

音楽自体、虚無だったのだ。

しかし、美しい虚無であった。

静かな部分は、清らかというより、冷酷なまでに、澄んでいる。

一方、クリーヴランド管は、あたたかい響きで、しかし、音の内には、硬質なところがある(独特なオーケストラだ)。

造形はモダン。

大きな音は、淡然と、パッションをたたえる。

ウェルザー=メストはいう。

「そこに希望はない。しかし、そこに希望はある」。

「そこに希望はある。しかし、そこに希望はない」*13

彼と、クリーヴランド管が奏でるのは、そういう音楽、「大フーガ」だ*14

かような美が、現象として、ここにある。

実存に根ざした美として、ある。

指揮者にとって、それは、発見であったに違いない。

演奏は、〈自己〉へと向かう、思索であった。

だから、これを、指揮者の「自画像」と、呼んでもいい*15

しかし、ひどく捩(ね)じれた、自画像だ。

欠落が同時に、過剰でもあるような〈(反-)肉体〉*16

その狭間で、「等身大の自分」は、ほとんど、見る影もなく、引き裂かれている*17

虚無と美*18

音楽は、モダニズムにとどまりながら、虚無*19を乗り越えようとしている。

(本当は)不可能と知りながら*20──。

(ラトル=ベルリン・フィルが、そのベートーヴェンで、ある古典性から逸脱しつつ、新たな古典主義へと至るのと、対照的な身振りだ*21。)

赤裸で、親密な、音楽の告白だった*22

 * *

二十分の休憩。この日、同じ時間、小ホールでは、スペインの、カザルス・カルテット(Cuarteto Casals)が、ベートーヴェン・ツィクルスの、初日を迎えていた。演目は、弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調《セリオーソ》、第13番 変ロ長調《大フーガ付》。偶然だが、後半は、小ホールで、「大フーガ」が演奏されたことになる*23

  * *

交響曲第9番 ニ短調《合唱付き ‘Choral’》作品125。1817-24年作曲。

「大フーガ」の前年に書かれた。

合唱を担当する、新国立劇場合唱団は、オーケストラと、舞台後方席(Pブロック)の間に並んでいる。

第1楽章。

音楽は、強くなっても、荒れることを、おそれない。

存在の領分を、よく、知っているからだ。

第2楽章で、オーボエが、端正に造形したかと思うと、なめらかな濃淡をつけて、ゆらめいて、きえた。

その音(ね)は、どこまでも、澄み切っていた。

二楽章の後(のち)、ソリストが入場する。

ラウラ・アイキン(Laura Aikin ソプラノ)*24、ジェニファー・ジョンストン(Jennifer Johnston メゾ・ソプラノ)、ノルベルト・エルンスト(Norbert Ernst テノール)、ダション・バートン(Dashon Burton バス・バリトン)。

第3楽章。

ゆったりとした楽章だ。

ウェルザー=メストの指揮は、ロマンティックなところがなく、締まっているが、それは、ここで、もっとも、きわだった。

しかし、「大フーガ」で聴かせた、痛切な透明はない。

クリーヴランド管の響きは、指揮者の解釈を、内側でかたく留(と)めながら、あたたかく、柔らかく、つつみこむ。

どうしようもない生を見据えつつ、それでも〈世界──Welt〉を生きること*25

「そこに希望はない。しかし、そこに希望はある」*26

それは、彼にとって、「現実」だった。

美意識であり、祈りであり、「賭け」だった。

モダニズムの果て。

空虚な祝祭などいらない。

わたしたちはみな、全面的に、肯定されるべきだった。

第4楽章*27。アタッカ。 

「おお、友よ、このような調べではなく、

もっと快い、

喜びに満ちた調べを歌おう」*28

合唱が、バス・バリトンに続き、この日、一番の音量で、はじめて、耳を衝く。

Deine Zauber binden wieder,

Was die Mode streng geteilt;

Alle Menschen werden Brüder,

Wo dein sanfter Flügel weilt.*29

文字通り、オーケストラを、つつみこむ。

その目は詰んでいる*30

「善なるものも悪なるものもすべて

みなバラの道をゆく」

それは、幾重にも、聴き分けられないほど幾重にも、調和した、音楽のバラだった。

蕾が、音楽として、ひらくこと。

「走れ、兄弟たちよ、なんじの道を、

英雄が勝利に赴くように、喜ばしく」

指揮者は、そのまま、〈喜びに満ちた調べ〉を奏でるのだ。

ベートーヴェンを仰ぎ見るのではない*31

ウェルザー=メストを仰ぎ見るのではない。

彼らとともに、走ること!*32

Freude schöner Götterfunken,

Tochter aus Elysium,

Wir betreten feuertrunken,

Himmlische, dein Heiligtum!*33

Deine Zauber binden wieder,

Was die Mode streng geteilt;

Alle Menschen werden Brüder,

Wo dein sanfter Flügel weilt.

「星空のかなたに主を求めよ!

星空のかなたに主は必ず住みたもう」

下手の打楽器群が、けたたましく、合唱にくわわる*34(指揮者の棒が、合唱までとどいていると、目に見えて、明らかになる)。

Seid umschlungen, Millionen!

Diesen Kuss der ganzen Welt!

Brüder! über'm Sternenzelt

Muß ein lieber Vater wohnen.*35

Freude schöner Götterfunken,

Tochter aus Elysium,

 

「大フーガ」の冒頭、「かくあらねばならぬか?」と自問したウェルザー=メスト

終に、彼は、「かくあるべし!」と、謳い上げた*36

 * *

standing ovation が起きはじめる。

standing ovation する人の輪が、拡がってゆく。

この様な美が、音楽で、確かに存在すると、示したことに、敬意を払いたかった。

カーテンコールが終わり、楽団員、合唱団員がほとんど退場しても、拍手は止まない。

指揮者が現れ、両手を合わせ、そして、胸の上に重ね合わせて、応えてくれた。

ウェルザー=メストの芸術は、例えば、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)=バイエルン放送響(Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks)のように、高い芸術が、そのまま、人々をentertainする、という度合が低い*37。だから、聴く人によっては、完成度は高くとも、凡庸に、あるいは、「つまらない」と、感じられたかもしれない(客席は、ざっと見る限り、9割方が埋まっているようだった)。

私たちは、最後まで、拍手を惜しまなかった。

 * *

感想を書き終わり、当日、会場で買い求めた、プログラムを読み始める。

そこには、ウェルザー=メストによる、三つのテクストが収められている*38

彼には、一貫した、主張があった。

ベートーヴェンの音楽では常に、内面的なドラマが、それぞれの序曲、楽章、交響曲を前進させていきます。このドラマの主軸をなしているのは、人間の善良さ(human goodness)と、より善い世界を志向する人間(humanity)としての責務であり、それこそが、ベートーヴェンの音楽がもつ不朽の強さであると私は信じています」。

ウェルザー=メストは、ベートーヴェンの芸術性を、善(good)と捉えている*39

ベートーヴェンは、《プロメテウスの創造物》という、バレエ音楽を作曲しており(1800-01年)、「この話をよく知って」いた。

ギリシャ神話のプロメテウスは神々から火を盗み、炎をもって人間に力を与えた。ギリシャ人たちは、人間にとっての善のために神々に逆らった彼の道義的決断について書き、後年哲学者たちは、自分の身を顧みずに正しいことを行なった英雄のシンボルとして彼を再認識するのである。芸術家たちは彼を絵画や彫刻に表した。… 私がこれについて考察を続けるうちに、これらの概念や考え(プロメテウスがもたらした火の象徴するものや、それらをめぐる議論)がいかにベートーヴェンの世界観に直接つながっているか、また彼の「善のために戦う」という深い信念を形作るのにいかに寄与したかに思い至った。ベートーヴェンの時代から2世紀を過ぎた我々現代人の頭が、彼が当時何を考えて創作を行なったのかを理解する手段として、ベートーヴェンの音楽的アウトプットを検証するにはプロメテウスの観念や理想が切り離せない手段となることを認識したのである」。

プロメテウスが、英雄的に──「地上の人間たちに知識・勇気・力を授けるために神々に抗った英雄」──、人々にもたらした、火=善。その物語は、ベートーヴェンの芸術に、直接的、かつ、不可分な影響を及ぼした、という見立てが、プロジェクトの名に、反映されている。

しかし、その精神は、指揮者にも、乗り移ったようだ。

「これらの弦楽四重奏曲ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲)を、より大人数のアンサンブルで演奏することは、時に私たちに、より多くの洞察を与えうる。それは結果的に、ベートーヴェンの世界観のヴェールを剥ぐ助けともなるのではないだろうか」。

ウェルザー=メストは、交響曲第2番の解説で、次のように述べていた。

「プロメテウスがそうであったように、ベートーヴェンも、ある目的のために規則を破る道を選んだ」。

ウェルザー=メストが、ベートーヴェン作品の、プロメテウス性を示すために、この作品を、管弦楽で演奏したことは、プロメテウス的で、「プロメテウス・プロジェクト」にとり、象徴的な出来事であったと思う*40

「大フーガ」の解説は、こう、締めくくられる。

「(当時演奏されてから)200年が経った今、私たちは、この崇高で謎めいた作品の中に何を見出すことができるだろう?「大フーガ」に耳を傾け、理解し、この問いに答えるのは、私たち一人一人である──プロメテウスが判断し、行動に移したように。そして、この音楽の「火」の力を享受する役割を担っているのも、私たち一人一人である」。

「判断」し、「行動」すること。彼は、自ら、それを、演じてみせたのだ(ただし、彼らのベートーヴェンは、anti-hero であった)。

 * * 

これらの言葉は、「判断」であり、「行動」である。

これらの言葉は、「判断」と「行動」の、あいだにある。

そられは、判断を、からだに刻むし、

行動を、準備する。

ベートーヴェンや、ウェルザー=メストは、音楽で、それをした。

ダンサーは、踊りで、するし、

画家は、絵で、する。

言葉にも、それは可能だろうか?

批評は、可能だろうか?

 

ベートーヴェンを聴き、

美的判断をする。書く。

それが、知らず、「行動」となる。

「プロメテウス・プロジェクト」。

ベートーヴェンが、音符に籠めた、

秘密のプロジェクト。

 

音楽を聴くこと。単に「娯楽」のためだけでなく、音楽を聴くこと。

「もちろん音楽として楽しみ続けることはできるし、楽しむべきである」。

文化のない、芸術はない。

でも、もし、このような、芸術に、出会ってしまったら、

その声に、耳を傾けてみるのも、「音楽」だ。

「偉大な作品」はあり、「偉大な芸術家」もいる。

「全ての芸術の偉大な作品は、単に娯楽のためだけではないと私は強く信じている」。

何と、時代的で、反時代的な、信念なのだろう。

もし、このような、芸術に、出会ったら、

「判断」*41し、「行動」するのも、「音楽」だ*42

 

プロメテウスにとって、

はじめに、善があるのではない。

「判断」した、善があるのだ。

「判断」を欠く善は、「娯楽」だった。

それは、肯定される(べき)だろう。

しかし、彼にとっての問題は、

どうしても、芸術となった。

 

「行動する」私は、「行動する」あなたによって、

動かされた。

「行動する」とは、そのような可能性を、孕むこと。

「判断する」しかなく、そのまま、「行動する」しかない、私。

英雄。

それは、そうやって、生まれる。

英雄など、い(ら)ない。

英雄は、生として、ある。

その先にいる、プロメテウスとて、

生の残照に、過ぎない*43

「行動」せよ!

「私たちは皆、ヒーローを必要としている。

善と真実を教えてくれて、

この狭い地球を共有する国際社会が

進むべき最善の道を力強く示してくれる

ヒーローを」*44
 * *

ウェルザー=メストは、「哲学的なメッセージ」*45や「暗号化したメッセージ」*46をはじめ、作品のもつ、音楽的、歴史的な意義もふまえ、ベートーヴェン作品の、プロメテウス性、善性を、審(つまび)らかにしてゆく*47。ところで、「プロメテウス・プロジェクトについて「善のための戦い」」は、次のように、始まる。

ベートーヴェンは自分の人生と芸術を、「善のために戦う」ことに費やした。知識と理解に基づき正義と客観的事実に満ちた、より良い秩序ある世界を作り出すために人類は互いに協力せねばならない、と信じていたのである」*48

ウェルザー=メストが、ベートーヴェン作品の内に見出した、善。それは、結局、こう言われるだろう。

「「フィデリオ」が書かれた19世紀初頭は、哲学者はもちろんのこと、政治家や芸術家など世界中のあらゆる思想家のあいだで、「善」という観念が重要な疑問になりつつあった時代だった。… 哲学者と作家は善と真実を定義しようとし、人間の存在についての現実を理解しようとしていた。アメリカとフランスにおける革命は、言うなれば正義と真実と自由についての観念、すなわち何が善で何が正しいのかというそれまでの観念に対する反発であった。… ベートーヴェンとプロメテウスの神話の間には、特に共鳴するものがあると私は思う。… この神話の観念は、まさにベートーヴェンの芸術の中心にあるものなのだ。正義と自由という「炎の中心」は彼の唯一のオペラ作品の核であるだけでなく、彼の芸術活動全体を通して貫かれていると私は考える。これこそが、ベートーヴェンが彼の芸術の中で意図したものを理解するための、堅牢かつ示唆に富んだ「窓」になると確信している。… プロメテウスというレンズを通してベートーヴェンの作品を考え、この思考枠の中でベートーヴェンの音楽を聴くことによって、私たちは新しい耳を持って彼の作品を聴くことができると信じている」。

それは、最終的に、信じるものだった。信じるしか、できないものであった*49

 * *

そうして、ベートーヴェン── citizen*50──を、ウェーベルン── roi ──のように、演奏すること、つまり、  ベートーヴェンを、ウェーベルンの、「次」の作曲家── hero*51──として提示したことは、正に、「プロメテウス・プロジェクト」における、actual な、発見だった*52

近代のはじめに、善による進歩があったなら*53ウェルザー=メストは、その果てに、それを、もう一度、接続して、調和──善──をはかっているようにみえる。直線的なパラダイムを、円環にとじ、新たな音楽を、提唱しているのだ*54

上の感想には、決定的な局面において、ベートーヴェン的、プロメテウス的な、善を、記述した痕跡が、認められるし*55、演奏法*56や、プログラミング*57にも、「判断」をともなった「行動」の軌跡が、描かれている*58。一週間、彼らの演奏に、耳を傾ける機会を得た鑑賞者は、より有機的な拡がりをもって、ベートーヴェンウェルザー=メストの「目論見」を、体感したことだろう。

  * *

ウェルザー=メストが書いた、三つのテクストを読むこと。自分の書いた文章を読み返しつつ、それらを読むこと。そして、書くこと。それは、もう一つの、美的体験であった。「彼(ベートーヴェン)の作品は、もっぱら音楽であるだけでなく、音楽家たちと聴衆が交わす意味深い対話としてそこにあるのです」。 ベートーヴェンを媒介として、ウェルザー=メストクリーヴランド管と、対話を重ねることができた。

 * *

「プロメテウス・プロジェクト」は、幕を閉じた。しかし、それは、未来に向かって、開かれている。

「このたび新たにベートーヴェンの音楽に向き合うに当たり、クリーヴランド管弦楽団の奏者たちと全ての聴衆の方々が、この作曲家の信念の強さを聴き取ってくださることを願っています。そしてこのプロジェクトが私たち皆にとって、各々の人生や、今日の世界で各自が担うべき役割について、考えをめぐらせる機会となれば幸いです。

私たちが生きる今日において、芸術は日々の景色に大きな影響をおよぼし、私たちの価値に気づかせてくれます。一日一日は、だた何かを肯定するための時であるだけでなく、人類の善を求めて実際に立ち上がるための時でもあります。ベートーヴェンと同様、私もまた、人間の価値と潜在能力を強く信じています。あらゆる人々に内在する力と善良さこそ、ベートーヴェンの音楽に込められているメッセージであり、その可能性を伝えることが「プロメテウス・プロジェクト」の趣旨なのです」*59

 * *

一年前の今日、ある中国人が、この世を去った。彼を偲んで、この文章を閉じたいと思う*60

*1:ウェルザー=メストは、この3月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管(Royal Concertgebouw Orchestra)に客演し、ベートーヴェンの、「大フーガ」と、交響曲第5番を組み合わせたコンサートを、指揮している。https://www.concertgebouworkest.nl/en/concert/beethoven-s-fifth

*2:オーストリアリンツ生まれ。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(London Philharmonic Orchestra)・首席指揮者(1990-96年)、チューリヒ歌劇場(Oper Zürich)・首席指揮者、音楽総監督(1995-2008年)、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)・音楽総監督(2010-14年)等を歴任。現在、クリーヴランド管弦楽団音楽監督(2002年-)。

*3:1918年創設。歴代の音楽監督には、ジョージ・セルGeorge Szell 1946-70年)、ロリン・マゼールLorin Maazel 1972-82年)、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnányi 1984-2002年 Music Director Laureate)らが、名を連ねる。ちなみに、6月7日は、セルの誕生日だった。

*4:Ludwig van Beethoven(1770-1827年

*5:2013年11月、クリスティアンティーレマン(Christian Thielemann)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)、サントリーホール他。及び、2016年5月、サイモン・ラトルSimon Rattle)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)、サントリーホール

*6:ウェルザー=メストは、この作品を、こう評する。「英雄主義の理想は、すでに第3番の冒頭で、明確に音で表されている。それは変ホ長調という調性の選択にも見て取れる。この調を支える3つのフラットは、自由・平等・博愛を象徴し、人間性、そして人間の表現の崇高さを表現しているのである。… ベートーヴェンは第3番という長旅の出発点に、驚くほどシンプルに、変ホ長調の主和音を配している。和音が二度鳴らされると、すぐさま音楽が流れ出る。ベートーヴェンは、もっぱら冒頭の和音の提示とその発展をもとに、この大規模な第1楽章を構築している。まさに創造力がなす「離れ業」である」。この交響曲の、英雄的側面を、音楽の創造性の観点から、捉えたものだ。

*7:今ツィクルスでは、九つの交響曲、「大フーガ」に加え、《プロメテウスの創造物》序曲、《エグモント》序曲、《コリオラン》序曲、《レオノーレ》序曲第3番が、演奏された(全5回)。ウィーン・フィルでは、《エグモント》序曲のほか、ルドルフ・ブッフビンダー(Rudolf Buchbinder)の弾き振りで、ピアノ協奏曲全曲(五曲)が、二夜にわたって取り上げられた(全6回)。ベルリン・フィルは、《レオノーレ》序曲第1番を、合わせて演奏した(全5回)。

*8:バレエ公演では、ズービン・メータ(Zubin Mehta)指揮、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団(Israel Philharmonic Orchestra)の演奏を、聴いたことがある(《第九交響曲》(振付:モーリス・ベジャール(Maurice Béjart 1927-2007年))、ベジャール・バレエ・ローザンヌ(Béjart Ballet Lausanne)、東京バレエ団、2014年11月9日、NHKホール https://youtu.be/dSHyjnarLwE)。オーケストラは、ピットではなく、舞台上、奥で演奏した。合唱は、栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)。イスラエル・フィルは、これに先立ち、コンサートを聴いていた(交響曲第36番《リンツ》(モーツァルト)、交響曲第5番チャイコフスキー)他、メータ指揮、2014年10月26日、サントリーホール)。

*9:楽団創立100周年記念。5月には、クリーヴランド、ウィーンで、開催された。 Special festival to conclude Centennial Season Prometheus Project The Prometheus Project 2018 Beethoven Symphony No. 9 excerpt - YouTube クリーヴランドでは、「大フーガ」と交響曲第9番のプログラムを、最後に、三回演奏し、ウィーンでは、日程が、他と異なった。また、東京では、交響曲第2番と、第6番《田園》の演奏順が、差し替えられた。以下は、東京公演の様子。Vienna & Tokyo 2018 Tour Diary Video Four - YouTube

*10:サカリ・オラモ(Sakari Oramo)指揮、BBC交響楽団BBC Symphony Orchestra)、ピアノ協奏曲第2番ラフマニノフ)(独奏:小菅優)、交響曲第5番マーラー)。

*11:William Preucil アトランタ交響楽団(Atlanta Symphony Orchestra)・コンサートマスター(1982-89年)、クリーヴランド・カルテット(Cleveland Quartet 1969-95年 89年加入)・ファースト・ヴァイオリニスト等を経て、1995年より、クリーヴランド管弦楽団コンサートマスターhttps://www.clevelandorchestra.com/About/Musicians-and-Conductors/Meet-the-Musicians/M-S-Musicians/Preucil-William/

*12:この作品を、「プロメテウス・プロジェクト」で取り上げる意図を、ウェルザー=メストは、次のように述べる。「これらの傑作(ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲群)は、極めて抽象的な側面を備えている。しかし同時に、極めて物理的で濃度の濃いものにも感じられる。だからこそ時おり、これらの弦楽四重奏曲を4人で演奏するのは心もとなく思える。あるいはおそらく、こう述べた方が適切だろう──これらの弦楽四重奏曲を、より大人数のアンサンブルで演奏することは、時に私たちに、より多くの洞察を与えうる。それは結果的に、ベートーヴェンの世界観のヴェールを剥ぐ助けともなるのではないだろうか」。

*13:「数年前、私がザルツブルグ音楽祭でのベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」の新プロダクションの準備をしていた時、プラトンのある言葉に出会った。古代ギリシャの哲学者たちにとって、「善」の観念は「真実」の観念よりも重要である、という一文である。善が真実よりも上だというのではなく、善と正義を理解することは、究極的には真実を理解するよりも大事だと言うのである。私はこのことについて、そして真実と善の間に起こるであろう矛盾、現実世界と人間の希望や憧れとの矛盾について考え始めた」。

*14:ウェルザー=メストは、ベートーヴェン座右の銘、「私はいま存在し、かつて存在し、これから存在するものの全てである。死すべき人間の中で、私のヴェールを剥いだ者はいない」(古代エジプトの女神イシスの寺院に刻まれていたとされる格言)を紹介しつつ、「大フーガ」を、こう特徴づける。「不可解にも未来と過去を同時に見据えている「大フーガ」」。「作曲技法が古いか新しいかは、重要ではなかった。むしろ彼が重視したのは、その技法が、おりおりに自分が発信したいメッセージを適切に運んでくれるのか否かという点だった」。ちなみに、イシスは、オリシス(イシスの兄であり夫)とともに、モーツァルトのオペラ《魔笛》(1791年初演)の最後、「オリシスの神よ、汝に感謝する、イシスの神よ、汝に感謝する!」と、僧侶たちによって歌われ、「美と叡智には、永遠の王冠が飾られる!」という言葉で、この合唱、作品は、幕となる。《魔笛》は、この四月、ウェルザー=メストの指揮を、映像で聴いた(2000年、チューリヒ歌劇場)。また、ウェルザー=メストは、交響曲第3番の「英雄主義の理想」を語る際、《魔笛》序曲冒頭の、変ホ長調の和音(および「英雄タミーノと神殿の弁者の問答の場面」における和音の回帰)を、引合いに出していた。彼は、この11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と来日し、《魔笛》序曲を含む、三つのコンサートを振る予定だ。以下は、東京公演の予定。https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20181120_M_3.html

*15:ベートーヴェンの時代はとても刺激的で波乱に満ちた時代であった。… 芸術でも哲学でも政治でも、新しい観念や新しい動きが進んでおり、自己発見や個人的観点が哲学の重要な要素となった。古典主義はドイツの観念論に取って代わられた。観念論とは、「意味」とは固有の真実よりも我々自身の理解から成る、という考え方である」。それは、先ず、作曲家にとっての、「自画像」であった。

*16:「「晩年」に創作することができた多くの幸運な作曲家たちと同様、この時期のベートーヴェンは、自らの音楽観を発展させ続けていた。言い換えれば自らの音楽観を研ぎ澄ませ、本質へ向かわせていたのである。さらに彼は、存在の真髄を表現するために、あらゆる余計なものを除こうと努めた。… 自らを取り巻く世界を理解し説明するために、音楽を通して「ヴェールを剥ごうと」した。… さらに彼は、自らの芸術において早い時期に始動させていた哲学的な旅を、完結させようとした」。

*17:「第9番はあまりにしばしば、ベートーヴェンの最後にして最大の音楽的記念碑とみなされている。とはいえ、彼の後期の弦楽四重奏曲群、とりわけ「大フーガ」全体において、彼はいっそう前進し、さらに遠くへ到達している。第9番で試みたアイデアを、よりいっそう洗練させ、変質させているのだ。第9番の終楽章では、エンディングで全合唱が栄光に満ちた「歓喜の歌」を歌うが、これに先立つフガートのセクションも注目に値する。後の「大フーガ」において、ベートーヴェンは第9番で開拓した技法をより洗練させ、フーガの概念をよりいっそう明確にし、これをより高い次元へと導いている」。

*18:虚無かつ美。この構えは、アントン・フォン・ウェーベルン(Anton von Webern 1883-1945年)の、ある種の作品に、色濃く認められると思う。ならば、われわれは、フランツ・ウェルザー=メストが、ウィーン国立歌劇場の指揮者になったとき、「ウェーベルン万歳(‘ Vive le Roi ! ’)」と言わねばならなかったか(偶然だが、今日は、シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874-1951年)の命日だ(‘ Le Roi est mort ’))。ピエール・ブーレーズPierre Boulez 1925-2016年)は、1999年、ウェーベルン全集のライナー・ノーツで、次のように述べていた。「ヴェーベルンは別格である。… 何の騒動もなく、きわめて思慮深い革命である。… 思慮深い禁欲の魅惑を達成しようとするような音楽の創造である。… ヴェーベルンの作品は … 私たち自身に私たち自身を明示するよう、強いるのである。ヴェーベルンの思慮深い個性は、深い、ほとんど独裁的な影響を及ぼしてきた。前進しようとしてそれから自由になるのが困難になってきたと言ってよいほどである。彼の音楽は多くの既存の演奏習慣に疑問を抱くようなその演奏家に、いくつもの問題を提出した。技術的な要求というよりも、理念と表現への極端な集中に根差す問題である。… 極度に感受性の鋭いヴェーベルンの音楽は、他の作曲家にほとんど例を見ない苛酷なパラダイムとなってきた。20世紀のプロフィールとしてこれからも永遠に刻まれるであろうと、私は信じている」。ブーレーズは、作曲家であるが、指揮者でもあり、クリーヴランド管の、首席客演指揮者、音楽顧問を務めた。2014 Distinguished Service Award

*19:ウェルザー=メストなら、「生の悲しみ」というかもしれない(交響曲第7番解説)。

*20:二つのコンサートを思い起こそう。リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly)指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester)、マーラー交響曲第7番《夜の歌》、2014年3月23日、サントリーホール。グスターヴォ・ドゥダメル(Gustavo Dudamel)指揮、ロサンゼルス・フィルハーモニック(Los Angeles Philharmonic)、マーラー交響曲第6番《悲劇的》、2015年3月28日、サントリーホール。この、二つのマーラーは、虚無を、積極的に、覆った。前者は、「健康的」に、後者は、無邪気に。《夜の歌》は、完成度も高く、ユニークな芸術だったろう。《悲劇的》は、無邪気を、邪心のなさと、肯定的にとらえるか、浅薄ととるかで、芸術性の欠落と、表裏一体だった。いずれにせよ、そこに、私が、この作曲家を、聴く理由を、見出すことは、出来なかった。この「大フーガ」に感心する感性には、美しいと、感じられなかった(シャイーは、ゲヴァントハウス管の指揮者を退任したが、ドゥダメルは、ロス・フィルと、来年3月、来日するそうだ(楽団創立100周年)。再度、マーラーを指揮するという(交響曲第1番《巨人》、交響曲第9番))。

*21:交響曲第1番、交響曲第3番《英雄》、サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、2016年5月11日、サントリーホール。ラトルは、ベルリン・フィル特有の、一体性の強い(室内楽的な)、合奏能力を生かして、音楽を、面に、折りたたむ。そうして、ベートーヴェンを、「(非-)古典的平面性」をもって、豊かに〈受肉〉させるのだ。

*22:ベートーヴェンの偉大な作品のみならず全ての芸術の偉大な作品は、単に娯楽のためだけではないと私は強く信じている。素晴らしい芸術にはメッセージがある。ベートーヴェンは単に自分が楽しんだり周りを楽しませようとしただけではなく、観念と格闘していた。彼の世界観を取り入れ、音楽を通して哲学を音に変えていったのである。まさに、ベートーヴェン作品はドイツ語で言う Bekenntnismusik 、直訳すると「告白音楽」と言われる所以である」。

*23:全六回の演奏会は、一つずつテーマが掲げられており、この日は、「濃密と拡がりの極致」だった。https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20180607_S_3.html

*24:当初、リューバ・オルゴナソヴァ(Luba Orgonášová)が歌う予定だったが、急病のため、出演できなくなった。

*25:「この交響曲は、私たち人間が人間であることを自覚する、極めて重要な瞬間である」。

*26:かつて聴いた、シューベルトFranz Schubert 1797-1828年)の眼差しは…。「いつ果てるとも知れない歌。微笑みながら、目の奥は、絶望を見据えている、やさしい歌。そっと寄り添って、ただいてくれる」。ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演を聴く - op.1 ウェーベルンは、委嘱されて、シューベルトのピアノ作品、《6つのドイツ舞曲》D.820 を、オーケストラ用に、編曲している。

*27:「第4楽章は、ニ短調(死)と変ロ長調(希望)を合体させた強烈な不協和音で開始する」。

*28:歓喜の歌」(大木正純訳)。この部分は、ベートーヴェンによる。以下、シラー(Friedrich von Schiller 1759-1805年)の詩(1785年)による。

*29:「なんじの神秘的な力は/引き離されたものを再び結びつけ/なんじの優しい翼のとどまるところ/人々はみな兄弟となる」

*30:合唱指揮は、三澤洋史。客席には、関係者か、外国人の姿も散見されたが、そのレヴェルに、驚いたかもしれない。クリーヴランド管弦楽団合唱団(Cleveland Orchestra Chorus)とは、違った演奏だったろうが、芸術的、美的には、オーケストラと、一体的だった(ウィーンでは、ウィーン楽友協会合唱団(Wiener Singverein)が歌ったようだ)。先のベートーヴェン・ツィクルスでは、ベルリン・フィルは、新国立劇場合唱団が歌ったが(合唱指揮:三澤洋史)、ウィーン・フィルでは、ウィーン楽友協会合唱団を、帯同させた(合唱指揮:ヨハネス・プリンツ(Johannes Prinz))。

*31:「 … 彼が見たように世界を見て、…」(プロメテウス・プロジェクト「善のための戦い」)

*32:「彼の他の多くの音楽にも、第9番と同一のメッセージが、極めて深く、極めて広範囲にわたって託されている。この「プロメテウス・プロジェクト」が、それについて熟考する一助となることが、私の願いである。ベートーヴェンは作品に意味を込めた。その歌に耳を傾け、心を込めて歌おう。彼の死後200年のあいだに、世界が──良くも悪くも──どのように変化してきたのか、思いをはせながら」(ウェルザー=メストは、社会的にも、音楽的(芸術的)にも、「近代」を問題にしている)。

*33:歓喜よ、美しい神々の閃光よ/楽園からの娘よ/われらは燃えるように酔いしれ/天国に、なんじの聖殿に踏み入ろう」

*34:「シラーは歓喜を「神々しい煌めき」と呼んでいる。その「煌めき」とは、私たち一人一人の内にある。なぜならそれは、個々の違いを乗り越えて皆で手を取り合うことを尊ぶ意識のことだからである」。

*35:「いく百万の人々よ、互いに抱き合おう!/この口づけを全世界に与えよう!/兄弟たちよ! 星空のかなたには/愛する父が必ず住みたもう」

*36:「第9番は、単に人間をめぐる問いを投げかけるだけでなく、私たちがそれにどのように答えることができるのか、そしてどのように答えるべきなのかを、提案してもいる。なぜならこの交響曲は、自由・平等・博愛・自由思想を理想に掲げ、人間の連帯に深い洞察を加えているからである」。カザルス・カルテット、ベートーヴェン・ツィクルスの最後は、弦楽四重奏曲 第6番 変ロ長調、第16番 ヘ長調、第15番 イ短調で、テーマは、「言葉がもたらすインスピレーション」だった。「かくあらねばならぬか?」「かくあるべし!」は、「ようやくついた決心」として、ベートーヴェンが完成させた、最後の弦楽四重奏曲である、第16番の、最後の楽章(第4楽章)に、記されている。「私たちは何かに挑み、痛みをおぼえながら、やがて理解に至る。人生は生の感情と負の感情に満ちており、その両方とも、一方がもたらすことのできない観点を私たちに授けてくれる」(交響曲第7番解説)。

*37:2016年11月に聴いた、両者の、マーラー交響曲第9番評は以下。ヤンソンス指揮、バイエルン放送響のマーラーを聴く - op.1 ヤンソンスと、バイエルン放送交響楽団は、この11月にも来日し(二年ぶり)、《夜の歌》《英雄の生涯》《春の祭典》などを披露する。彼は、2003年から、このオーケストラの首席指揮者で、両者の芸術性は、極めて高度に結びついている。相性の良さでいえば、ウェルザー=メストクリーヴランド管以上だろう。しかし、今のところ、聴きに行く予定はない。一年半が経つというのに、まだ、あの日の音楽が、身体(からだ)に残り、純粋に染みこむのを、感じているから。そのような体験の、交響的な束の、ひとつとして。

*38:キリル・ぺトレンコ(Kirill Petrenko)のように、インタビューを受けることに、極めて慎重なのも、見識だが(「指揮者は、指揮台から音楽を通じて皆さんに語りかけるもの」。https://www.nbs.or.jp/blog/bayerische2017/info/2017-2.html)、ウェルザー=メストのように、自ら直接、まとまった文章を発表するのも、見識だ。文章は、インタビューにくらべ、判断力が、利いていると思われる。判断力は、文字通り、吟味する作用をふくみ、表現に、抑制的に振舞う(とすれば、現今、このテクストの存在自体──それは、ベートーヴェンの音楽同様、「意味」に、矛盾を孕んでいる──、芸術をめぐる言説に、一石を投ずるものとも、考えられる)。彼は、晩年のベートーヴェンを、こう評していた。「本質と音楽内のメッセージに意識を集中させ、一つ一つの作曲技法をよりいっそう注意深く用いるようになった」(「大フーガ」解説)。ウェルザー=メストは、現在、57歳。ベートーヴェンは、56歳で亡くなった。曲目解説では、「大フーガ」と交響曲第9番を、目立って、長く、論じている。

*39:実は、ベートーヴェンに、距離を感じていたのは、これが理由かもしれない、と思う。私の、クラシック音楽との紐帯は、善ではなかった。しかし、ウェルザー=メストクリーヴランド管は、それを、美として表現した。それは、「人間の尊厳」を、照らす(「シラーは歓喜を「神々しい煌めき」と呼んでいる。その「煌めき」とは、私たち一人一人の内にある。なぜならそれは、個々の違いを乗り越えて皆で手を取り合うことを尊ぶ意識のことだからである」)。「「神々」に対置された人間それ自体が、哲学と道徳の中心的な主題であり基準」である、「超越的で自覚的な表現」。それは、「高み」と「深み」をともなって、「人間の尊厳」へと導くのだと、ウェルザー=メストは、言う(交響曲第4番解説)。あるいは、善を、例えば、「イマヌエル・カントが哲学的に定義した「崇高なるもの」」=「単なる美を超える何か、(創造、体験、演奏における)究極への到達」(交響曲第2番解説)まで、おしすすめた、といえるかもしれない(善は、それだけ(特に、声高に)主張されても、響かない)。その意味で、ベートーヴェンは、ここで、驚くべき〈他者〉として、現れた(カント(Immanuel Kant 1724-1804年)は、ドイツの哲学者。その著書、『判断力批判』(1790年)は、西洋近代美学の嚆矢とされる。カントの名は、他に、交響曲第4番の解説、「大フーガ」の解説(交響曲第9番への言及として)にも見える)。

*40:彼ら、三者にとっての「善」(=美)は、そのような「逸脱」を、起こしかねない、側面をもつ。

*41:ウェルザー=メスト(=ベートーヴェン)は、一般に、判断することの大切さを訴える。例えば、交響曲第8番をめぐって、次のように言う。「第8番はあまりにしばしば、「どちらかといえば穏健な偶数番号の」交響曲の一つとみなされている。しかしこの古めかしい見解は、音楽そのものと、この曲が誇る多様なコントラストや先駆的な創造性を過小評価している。… 第8番の一側面は、「あたかも~のような」という言い回しで説明され、理解されうる。… 彼は判断を差し控えており、自分が真剣であるのか否かを聴き手が知ることを望んでもいない。…それは発達しつつある音楽、成熟しつつある音楽、そして植物の蔓のように、伸びていく方向を模索して拡張していく音楽なのである。そこには手引きなどない。… ベートーヴェンは「なぜ第7番は第8番よりも人気があるのか」と聞かれ、こう切り返したという──「第8番の方がはるかに優れているからだ」。なるほど、第8番はいまだに過小評価され、誤解されている」。

*42:判断は、作品を鑑賞しなければ、はじまらないが、鑑賞すれば、判断力がつくというものでもない。むしろ、度が過ぎれば、判断は、浅くなりがちだ。判断力は、文字通り、判断することによって、培われる。それは、時間のかかる、営みだ。当然、鑑賞回数は、限られてくる。判断力がつけば、公演を選ぶ目も、厳しくなるだろう。つまり、それだけ、チケットは、購入されない。これは、文化にとって、よいことなのか。ウェルザー=メストは、次のように述べる。「もちろん音楽として楽しみ続けることはできるし、楽しむべきである。しかしそこには意味もあり、内在するストーリーは楽しみと同じくらい重要なのである。楽しみと情熱のあるところには、同じように価値と意味が存在する」。判断すること。そして、楽しむこと。両者の(アン)バランスに、芸術をめぐる ‘ プレイヤー ’ の、価値観が、映し出され、それは、翻って、時代を、かたちづくるだろう。

*43:ウェルザー=メストは、「大フーガ」で、〈(反-)肉体〉を、濃厚に示した。「「大フーガ」は、彼が第9番の先に見つめていた地点を、私たちに指し示している。ある意味で「大フーガ」は、「もう一つの記念碑」なのだ。ここで彼は、いっそう純化された新しいアプローチで、再び全ての思想と理想に対峙している。この作品において、彼はさらにその思考を深め、自らの能力の限界に到達している。だからこそ「大フーガ」は、当時の大半の聴き手たちの理解を超えていたのだ」。

*44:「私たちは皆、ヒーローを必要としている」。濃密な〈(反-)肉体〉から、ウェルザー=メストは、演奏で、ベートーヴェンの思考を遡行し、この標語へと、至った。「これらの傑作(ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲群)は、極めて抽象的な側面を備えている。しかし同時に、極めて物理的で密度の濃いものにも感じられる。だからこそ時おり、これらの弦楽四重奏曲を4人で演奏するのは心もとなく思える」。「肉体」は、人間の視力にとって、「極めて抽象的な側面」の、目印となりうる。この直後、次のようにも言われる。「ベートーヴェンの場合、後期の弦楽四重奏曲は多くの点で、交響曲よりもいっそう純粋な哲学的思想を体現している。実際、そこにはリアルなものは何もない。彼の後期の弦楽四重奏曲はもっぱら観念であり、ただ演奏される時のみ(あるいは演奏家が楽譜を読む際に)命を吹きこまれる」(カントの認識論、「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である」という言葉が想起される。「音楽の背後にある意味を理解することは、啓蒙時代に起こった考え方の大きな変化に直接関係している」)。演奏家にとって(また、耳の不自由だったベートーヴェンにとって、とりわけ)、楽譜は、観念の「肉体」であった(「「ハイリゲンシュタットの遺書」の中で彼は、難聴にひるむことなく、この困難を克服してみせると宣言している。なぜなら彼の内には、外部に放出して譜面に記すべき多くの音楽が詰まっていたからである」(交響曲第3番《英雄》解説)。また、「ベートーベンは生前、自分の理想は当時の演奏技術では実現しきれないと考えていた」(2018年3月6日 朝日新聞夕刊 ウェルザー=メストへのインタビュー記事))。

*45:例えば、交響曲第4番の解説では、ユーモアが取り上げられる。「この交響曲に見出される繊細で巧妙なユーモアは、深い哲学的メッセージと相いれないものではない。実際、ユーモアは、私たちを教化し啓発するものだ。… ユーモアは深刻さの不在を意味するのではなく、私たちを取り巻く世界について、気づきを与えてくれるものなのである」(ここで、ユーモアは、善のひとつと考えられるだろう)。それらは、「同一の物事に対峙するための異なる視点であり、両者は何らかの目的のために互いを際立たせるのだということに、気づかされる」。ベートーヴェンにおいて、その作品は、時に、「ユーモアと「崇高なるもの(「美を超越する何か」)」は表裏一体の関係にある」。

*46:例えば、《プロメテウスの創造物》からの引用が、指摘される(交響曲第3番《英雄》第4楽章、交響曲第4番第4楽章)。

*47:For Ever Morzart(JLG) に、ポルトガルの映画監督、マノエル・ド・オリヴィエラ(Manoel de Oliveira 1908-2015年)の言葉が引用される。「ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和」。この日、彼らのベートーヴェンに聴こえたのは、第一、そのような美、〈光〉であったのではないか。そして、そこには──「徴たちの飽和」、過剰──、ウェルザー=メストが指摘するように、「宗教的・政治的・哲学的な次元」が「融合」していた(交響曲第9番解説)。「ともすれば、人間は枠の中で考えがちで、何にでも正確にラベル付けをしたがるが…」。

*48:先の、「私たちは皆、ヒーローを必要としている。…」は、この文章の、最後に、置かれている。

*49:手許に、ダニエル・バレンボイムDaniel Barenboim)が、ウェスト・イースタン・ディヴァン管(West-Eastern Divan Orchestra)を指揮した、ベートーヴェン・ツィクルスの映像がある(2012年、BBCプロムス)。この企画は、ベートーヴェン作品の善性を、ウェルザー=メストクリーヴランド管とは別様に、色濃く感じさせる。「ネルソン・マンデラ南アフリカ初の黒人大統領に選出された後の1994年には、私自身も、同国でロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共に第9番を演奏する栄誉に浴した。ヨハネスブルクの合唱団のメンバーは、当時まで仲違いしていたひとびとである。公演は私の人生の中でもとりわけ感動的な瞬間だった。社会全体が教養に裏付けられた文化的な方法で共に成長していくべきだ、という彼らの熱のこもった言葉を、私は永遠に忘れないだろう」。それらは、ある意味、「オペラ」だったろう。「衣裳において、身分の表現は、ほとんど記号のような位置にまで後退している、ということがあった。例えばパパゲーノの身なり。彼はタミーノのように高貴な身分ではなく、衣裳は、鳥刺と分かるようにつくられてはいるが、表現の中心は、ふたりを、一人の人間として、平等に扱っていた。パパゲーノは、おかしなことばかり言ってるけれど、自分に誇りをもって生きている。そう感じさせるのだ。… ローゼの美術と衣裳は、モーツァルトの音楽と共鳴して、ともに〈オペラ〉を奏でていた」(バイエルン国立歌劇場《魔笛》を聴く - op.1)。教養に対する私見は、以下を参照。tweets(2017.07.22) - op.1 ルービン元財務長官による寄稿 ‘Philosophy pays off’ (ニューヨーク・タイムズ) - op.1

*50:「啓蒙時代とは、個人の存在に焦点が置かれ、個人の決断と責任と自由意志の重要性が増した時代である。科学と思考によって、啓蒙時代は「王の神的権力」を問うこととなり、人民から湧き起こる力と換えられていったのである。それは、政治的権力は上からではなく人民から来るべきものであり、政府は人民に仕えるものであって逆ではない、という議論である。自分の周りの世界に対する理解は、人それぞれ特別で個人的なものであり、人間は社会を通して共に文明を築いていくのである」。

*51:「彼(ベートーヴェン)は自身をプロメテウスだとは考えていなかっただろうが、人間や正義の目的のために戦う、才能ある天才だと思っていた。そしてその戦いを、音楽を通して成したのである。(… 「天才」という言葉は、啓蒙時代に現在のような意味に変化した言葉である。元々は人が持つ才能のことだったが、やがて突出した能力のある人を意味するようになった。…)」

*52:どうやら、ウェーベルンの先には、ベートーヴェンがいるらしい(アポロ、ディオニュソスから、プロメテウスへ。ちなみに、ベジャールの《第九》は、プロローグで、ニーチェの『悲劇の誕生』が、引用される。「… ベートーヴェンの華々しい「歓喜の歌」を一枚の絵に描いてみるがよい。想像力を存分に駆け巡らせながら、人々が感動の戦慄を覚え、地面にひれ伏すのを凝視するがよい。そうすれば、ディオニュソスの陶酔に触れることができるだろう。…」。一方、ニーチェFriedrich Nietzsche 1844-1900年)は、同書(1870-71年)で、プロメテウスについて、次のように言っていた。「アイスキュロス的なプロメテウスの二重性質、ディオニュソス的にして同時にアポロン的な彼の性質は、概念的な定式としては次のように表現することができよう、「存在するものはすべて、正当でありまた正当でない、そして両者ともに同等の権利がある」。これが私の世界なのか!それにしても何たる世界であるか! … ギリシアの舞台の有名な人物は、たとえばプロメテウス、オイディプス等々はすべてかの元来の主人公ディオニュソスの単に仮面にすぎないということも、… 確実性をもって主張するに足る事実である。これらの仮面のすべての背後に一人の神が潜んでいるということ、これこそ、かの有名な人物たちの典型的な「理想性」なるものに実にしばしば人々の瞠目する一つの本質的な理由である」)。そういえば、ウェーベルン全集の「年譜」には、1903年、「1月25日、はじめてベートーヴェンの第9交響曲を聴き、「我が人生至上のとき」と称する」とあった。また、かつて、ジャン・リュック・ゴダールJean-Luc Godard 1930年-)は、For Ever Morzart を撮った(1996年)。https://youtu.be/A2LvEmJ8KXc 「私はモーツアルトについての、モーツアルトに関するフィルムを作りたいと思っていて、頭の中ではすでに『フォーエヴァー・モーツアルト』と呼んでいました。主題や物語が何だったか、もうよく思い出せません。たしか、あるアメリカ人が、かつて住んでいたドイツの都市に戻ってくるのです。… あぁ、思い出した。確かに、ある物語がありました。彼はかつていた場所を再訪します。実際、そう、彼がかつていた場所です。そして、彼の正体が暴かれます。いや、正体は暴かれないが、実際、そこに戻ってくるアメリカ人は、1945年のウィーンで、アントン・ヴェーベルンを殺したアメリカ人なのです。以上。もうよく思い出せません……。私はこれを『フォーエヴァー・モーツアルト』と呼びたかった。というのも、彼はある時、ある批評家によって、モーツアルトのある作品を演奏している時に、認められたからです。このようにしてタイトルが決まりました」(プログラム「FOR EVER MOZART JLG/JLG」)。ウェルザー=メストは、さらに、「ベートーヴェンにようこそ」と、われわれを、いざなうのだ。翻って、ゴダールは、ベートーヴェンの、最後のピアノ協奏曲、第5番《皇帝》(1809年作曲)をもって、この作品を、予告した(ゴダールは、「フォーエヴァー・ベートーヴェン」とは、言わなかった)。「ベートーヴェンのそれぞれの交響曲は、彼の芸術の様々なタイミングからのタイムカプセルに入ったメッセージと見ることができよう。モーツァルトハイドンの秩序だった古典主義から非常に個人的なロマン主義まで、そしてモダニズムの片鱗までも包括する時代の動きが、ベートーヴェンの後期の作品から窺える」。それは、ゴダールにとって(も)、未来から来た、タイムマシンでもあったに違いない。

*53:ベートーヴェンは、啓蒙思想、「しかるべき問いを設け、正しく論理的な方法で探求すれば、人間は必ずやその答え(神秘のヴェールとまとった自然)に到達することができる」という考えに、「同調し、文明の進歩を信じていた。それは世界をより明確に把握し、より善き状態に至り、善へ向かうことを意味した」。

*54:ベートーヴェンを「絶えず闘い、絶えず声を上げ、絶えず善を求める英雄的な作曲家」として捉えるだけでは不十分である … そのような人物像は、多面的なベートーヴェンの一面にすぎない … 「善を求める闘い」は、自己の内部においても遂行されなければならない。そこでは、平和、調和、容認が求められることもある。そして讃美が主題となることもある。…(交響曲第6番)終楽章で、ベートーヴェンは地球上のあらゆる生のために神と自然に感謝を捧げる。… ここでは、後に誕生する交響曲第9とまさしく同様に、音楽的な調和そのものが、より大きな世界の調和を体現しているのである」(交響曲第6番《田園》解説)。それは、ウェーベルンのエッセンスが、音楽的にも、時代的にも窮まって、ベートーヴェンに滲み出した演奏だった、とも考えられないだろうか。「極度に感受性の鋭いヴェーベルンの音楽」のように、ベートーヴェンが響くとき、感性の高まりは、鑑賞者のあいだに、ひろがってゆくだろう(逆にいえば、ウェルザー=メストベートーヴェンは、「ウェーベルン入門」でもあった)。

*55:ウェルザー=メストのテクストは、自分の書いた文章を、批評的に読み返す、契機ともなった。演奏、テクスト(それは、芸術家の言葉で、批評的だった。余談だが、先のゴダールは、批評から、映画作家へと転じている)の両面から、彼は、ベートーヴェンの芸術性へ、アクセスする機会を、提供してくれた(正にプロメテウス的だ)。プログラムには、「フランツ・ウェルザー=メストが言葉と演奏を通じて力説している通り──、ベートーヴェンは、プロメテウスをめぐる思想と理想を音楽に託した」とあるが、肯ける。

*56:ウェーベルンからベートーヴェンへ。ちなみに、クリーヴランド管の、2018/19年シーズン、ウェルザー=メストは、ウェーベルンの、《管弦楽のための6つの小品》(1928年改訂版)を振るという。シューベルトの、交響曲第4番《悲劇的》、R.シュトラウスの、《英雄の生涯》とともに、演奏される。https://www.clevelandorchestra.com/1819-concerts-pdps/1819-tco-classical-series-concerts/week-18/

*57:「宿命の主題」から「歓喜の歌」へ。

*58:ウェルザー=メストは、テクストで、ベートーヴェンの「善」について語り、自らの芸術には(直接的には)言及しない。しかし、演奏を聴いた耳には、それが、‘ ネガ ’として写っていると分かる(テクストだけ読んだら、彼を誤解していただろう)。一方、演奏で、「善」は、「痕跡」として発見された(演奏だけ聴いたら、ベートーヴェンの「新しさ」を理解できなかっただろう)。「プロメテウス・プロジェクト」は、演奏と、テクストの、芸術的に微妙な相互作用により、一つの「作品」として、鮮やかに立ち上がったのだ(執筆は、指揮とは対照的に、つとめて「啓蒙的」であった)。

*59:AMATIとともに、公演を主催した朝日新聞は、かつて、福島第一原発事故を取材した、「プロメテウスの罠」を連載していた。「ベートーヴェンの時代、プロメテウスが神々から奪って人間に与えた火は、様々なものを象徴していた。まずは文字通りの「火」である。周りを暖め、調理ができ、灯りを与え、産業と科学を発展させる火である。哲学的には、文明が築かれ発展を推し進める基盤となる、叡智と知識の火花を意味する。と同時に、破壊することも可能な火を取り扱うには注意と自覚が必要である。火は善のために使われるべく、コントロールされなければならない」。

*60:末期の肝臓がんであったという。「人間に火を与えたプロメテウスはゼウスの怒りを買い、追放された。岩山に磔にされた彼は、毎日、鷲に肝臓をついばまれて大いなる痛みと喪失に苦しんだ。プロメテウスの肝臓は夜に再生されたため、彼は来る日も来る日も、この拷問に耐えなければならなかった……。これは人生のメタファーである。物事は転変し、私たちの心身は日々、擦り減る。それでも私たちは耐え、生き続けなければならない。… 私たちは何かに挑み、痛みをおぼえながら、やがて理解に至る。人生は正の感情と負の感情に満ちており、その両方とも、一方がもたらすことのできない観点を私たちに授けてくれる」(交響曲第7番解説)。プロメテウスは、しかし、最後、ヘラクレスに、救われるだろう。「プロメテウスをその禿鷹から解放し、神話をディオニュソス的真理の伝達手段と化せしめたものはいかなる力であったか?それは音楽のヘラクレス的な力である。というのは、悲劇において最高の現象に達した音楽は、神話に新たな極めて深遠な重要性を付して解釈する術を知っているからである。… この死滅せんとしつつある神話を今やディオニュソス的な音楽の新たに生まれた精霊が引っ摑んだのである。そしてこの精霊の手中にあって神話は今一度咲き誇ったのである、かつて一度も示したことのない色彩に輝きながら、一つの形而上学的世界の憧憬的な予感を呼び醒ます芳香を放ちながら」(『悲劇の誕生』)。