op.1

ballet/orchesrta/criticism

テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナの、チャイコフスキーを聴く

 

 

教育で無菌化された学者のような音楽家が奏でるのは音楽の内部ではなく、音符に過ぎません。ロックミュージシャンはダンスできますが、クラシックの音楽家はダンスのステップすら知りません*1。──テオドール・クルレンツィス

 

どんな音楽でも、その音楽を愛していれば踊ることができる*2。──モーリス・ベジャール

 

 

 

2月13日、テオドール・クルレンツィス(Teodor Currentzis)指揮、ムジカエテルナ(musicAeterna)のコンサートに、足を運んだ。会場は、サントリーホール

両者の来日は、今回が、初めてで、ロシアと、ヨーロッパ以外への、ツアーも、初という。

クルレンツィスは、ギリシャアテネ生まれの、指揮者。ノヴォシビルスク国立オペラ・バレエ劇場(Novosibirsk Opera and Ballet Theatre)、首席指揮者(2004-10年)を経て、現在、ペルミ国立オペラ・バレエ劇場(Perm Opera and Ballet Theatre)、芸術監督(2011年-)*3、及び、SWR(南西ドイツ放送)交響楽団(SWR Symphonieorchester)、首席指揮者(2018年-)*4

ムジカエテルナは、「テオドール・クルレンツィスによって2004年にノヴォシビルスクで創設され、その後2011年にペルミ国立オペラ劇場(Perm Opera)のレジデンス・オーケストラ*5となった」*6。クルレンツィスは、その、音楽監督で、両者の関係は、15年に、及ぶ。

東京で開催される、3公演、3つのプログラムのうち、協奏曲の入っていない、すべて管弦楽曲で構成された、クルレンツィス=ムジカエテルナの芸術が、最も味わえそうな、最終日を選ぶ*7

今回の来日公演は、オール・チャイコフスキー・プログラム。

聴くことにした、プログラムは、すべて、コンサートで、聴いたことのない曲で、出来ている*8

 

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チケットは、完売とのことで(他の、二つの東京公演も、そうだったという)、ホワイエには、人が溢れている。

クロークにコートをあずけ、席につく。開演まで、7,8分。

ヴァイオリン奏者や、ヴィオラ奏者の、椅子がない。チェロ奏者の、椅子はある。彼らは、立って、演奏するようだ*9。ハープが2台、下手側、まだ見ぬ、オーケストラの、中に、立ててある。録音用のマイクは、吊るされていない。

定刻の、午後7時を過ぎ、アナウンスが流れる。

女性の声だが、いつもと違って、ロシア語、英語、そして、(たどたどしい)日本語での、あいさつを聴く(ムジカエテルナの関係者だろうか)。

しばらくして、プレーヤーたちが、登場してくる。

見る限り、皆、若い。

男性奏者は、黒いスーツに、黒のネクタイ、女性奏者は、黒い、ドレス姿だ。

両翼配置で、第1ヴァイオリン(6列)の内側に、チェロ、第2ヴァイオリン(6列)の内側に、ヴィオラがいる。コントラバスは、下手にいる。

クルレンツィスが、舞台に現れる。

黒い、タイトなパンツに、黒いブーツ、ゆるやかな、黒の上着で、その長身を、包んでいる。

指揮棒は、持っていなかった。

 

コンサート前半に演奏されたのは、組曲第3番 ト長調 op.55*10

譜面台が、指揮台左方に、斜めに、置かれている。

第1曲「エレジー」。

オーケストラは、音色が、清らかだ。いつも、透き通っているのではないが、透明感のある、音色をしている*11ウィーン・フィルや、ロイヤル・コンセルトヘボウ管のような、際立った、独特の音色は、認められない。

演奏技術は、端的なものがある(欧米の、一流オーケストラと、比肩する)。

弦の描く、線は、しなやか。2017年5月に聴いた、エサ=ペッカ・サロネン指揮、フィルハーモニア管も、しなやかな弦をしていたが*12、より、弾力があり、ロンドンの、たおやかで、品のある、オーケストラと比べ、文字通り、若い感じがした。

クルレンツィスは、指揮をしている、というより、若い肌を、愛撫しているようだ。resilient な肉が、内省的に、おもい、はずみ、歌っている。時に、それは、肉声となって、音楽の中で、交じり合って、聴こえる。

第2曲「憂鬱なワルツ」をへて、第3曲「スケルツォ」で、音楽の振幅が大きくなり、physical の度が高まっても、親密な、精神的な関係は、途切れない。 

第4曲「主題と変奏」。

ここで、クルレンツィスは、音(楽)を、硬質に、結晶化させてゆくが、無機に、陥らせることは、しなかった。

 

何度目かのカーテン・コールで、クルレンツィスは、オーケストラを振りはじめた。

チャイコフスキーの、ヴァイオリン協奏曲から、第3楽章だ(アンコール!)。

これは、他の二つの来日公演のプログラムに含まれる作品で、パトリツィア・コパチンスカヤ(Patricia Kopatchinskaja)が、ソリストとして、演奏している*13

ここでは、組曲の、第4曲で、ソロを弾いた、コンサートマスターの、アイレン・プリッチン(Aylen Pritchin)が、独奏だ*14

テンポが速い。にもかかわらず、プリッチンも、オーケストラも、とても、上手く弾く。

しかし、ソロは、弾き飛ばし、音の混濁する箇所が散見され、ソロとオーケストラの、ずれも、あった。彼らの解釈が、高度に技術的な芸術だからかもしれない、小さなキズの積み重ねが、決定的な、瑕疵(かし)と映る。

ソロとオーケストラの楽器が、同じ高さにあることも手伝い、一体的で、「協奏曲」であった。また、反対に、オーケストラ、殊に、弦楽の、猛烈に緊密な合奏が、ヴァイオリン・ソロの存在を、上まわることもあった。

先に、このコンサートについて、「協奏曲の入っていない、すべて管弦楽曲で構成された、クルレンツィス=ムジカエテルナの芸術が、最も味わえそうな、最終日を選んだ」と述べたが、ここに、彼らの、オーケストラ芸術の、ある側面を、窺うことは、出来た。

プリッチンは、演奏が終わるなり、大きな喝采を浴びていた。予定されていた演目ではなく、腐すのは野暮かもしれないが(コンサートの楽しみは、狭い意味での、芸術鑑賞に、限られない)、もう少しで、体験したことのない美を、味わえたかと思うと、残念だった(全楽章を通して聴いたとき、解釈の、「真価」に、気づく可能性は、否定できない)。

続いて、プリッチンのソロで、イザイの、ヴァイオリン・ソナタ 第2番から、第1楽章がアンコールされたが、ヴァイオリン協奏曲と、同じようなことを感じた(組曲第3番のソロは、美しかった)。

 

 * * * * 

 

演奏会、後半に演奏されたのは、チャイコフスキーの、二つの幻想曲(Fantasy)。

最初は、幻想序曲(Fantasy Overture)《ロメオとジュリエット》*15(作品番号なし)。

印象的だったのは、再現部、ロミオとジュリエットの、「愛の歌」の、雄渾で、爽やかだったこと。

演奏が終わり、長い沈黙。指揮者が、両腕を下ろすまで、客席は、音楽を、聴いた(そう、静寂/音楽は、音楽/静寂をふくんで、できていた)。 

 

最後は、幻想曲(Fantasy)《フランチェスカ・ダ・リミニ》op.32*16

(プログラムが発表された当初は、《フランチェスカ・ダ・リミニ》、《ロメオとジュリエット》の順だったが、「演奏者の強い希望により」、変更となった。)

クルレンツィスは、指揮台に上がるなり、間髪を容れず、指揮を始めた。

組曲第3番、《ロミオとジュリエット》でも、そうだったが、大音量が連続し、舞台から、音楽が、溢れても、音は、整然と、並んでいる(建築的に、見えるほどだった)。

ムジカエテルナの演奏技術は、その尖端で、クルレンツィスの、ユニークな芸術と、分かちがたく、結びついている(技術の完成には、芸術(知)が必要なのだ*17)。その目の詰み方に、空虚の付け入る隙は、ほとんどない*18

公演プログラムに掲載されたインタビュー記事によると、クルレンツィスは、自らの指揮を「退廃的」、としているが、ここに聴くチャイコフスキーは、むしろ、健康的であった*19。しかし、私たちは、彼が、「健康」の中にあって、チャイコフスキー、あるいは、モーツァルトマーラーを、演奏*20せざるを得ないところに、退廃を、見出すべきなのだろう。かつて、ピエール・ブーレーズは、例えば、その、マーラー解釈において、作品を、無機的に振ることで、逆説的に、エロスを滲ませたが*21、クルレンツィスは、作品の音響空間を、力による歪みを少なく、中性的に、透明に、組み立てることで、チャイコフスキーのエロスを、確かに、仄(ほの)めかした*22(私は、この、芸術的・美的特徴を、《フランチェスカ・ダ・リミニ》に至って、自覚した)。逆に、チャイコフスキーを、芸術的に、美的に演奏しようとする限り、われわれは、エロスから逃れない。彼らの演奏は、そのようにも、聴こえた。これは、クルレンツィス(=チャイコフスキー)=ムジカエテルナの、芸術的エッセンスだと思う*23。 

 

演奏会終了後、指揮者への、カーテン・コールは、起きなかった。

 

* * * *

 

クルレンツィスとムジカエテルナは、変わったことを、いくつかした。舞台を降りても、そのようで、この指揮者を彩る言葉は、賑々(にぎにぎ)しい。しかし、要は音楽で、愛好家にとって、驚くべきは、彼らの芸術であった。この日耳にした、音楽の〈新しさ〉を、擦れることなく、覚えておくこと。翻って、名門楽団が、示し続けた、伝統の〈新しさ〉を、再認識すること。惹句に踊らされる愛好家を見るのは、クルレンツィスの、本意ではない。それは、彼の音楽を聴けば、分かることだ*24(一方、彼は、コマーシャリズムと戯れることのできる(ambiguous)、clever な芸術家だ)。

公演プログラムのインタビュー記事で、ムジカエテルナのヴァイオリン奏者、田部絢子さんが、クルレンツィスの、興味深いエピソードに、言及していた。

「本番で、お客さんが静かにしないと、楽章間などに「ケータイ電話切ってください」と自分で言ったりするのですが、マーラー交響曲第4番の、あの静かな第3楽章の演奏中、客席でケータイが鳴った時に突如演奏を止め、「私はこの音楽を演奏するのに一生をかけているのに!」と狂ったようにスピーチしたんです」。

愛好家にとっても、「クルレンツィスを聴く」とは、美的体験に、「一生をかけること」に他ならない。それは、音楽を職業とする、という意味ではない。音楽を聴くとき、「私」という存在を、音楽に、「賭ける」こと。つまり、目を閉じて、音楽のただなかに、身を、投げること*25。もしそこに、美があったなら、私は、一生かけても、生きることのできない生を、手に入れるだろう*26。ここにある、「テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナの、チャイコフスキーを聴く」と題された、10,319字の文字列は、私の官能からこぼれ落ちた生の息吹、〈私〉の証明に他ならない。だから、その連なりは、美しくなければならない。クルレンツィス=ムジカエテルナの、芸術の高みに、少しでも、近づけるよう、文字を、配列──interpret(解釈/上演)──しなければならなかった(その成否は、別だ)*27。美しい音楽を聴いて、醜い言葉を吐いたなら、結局、私は、〈音楽〉を──musicAeterna(永遠の音楽)を──聴き損なったのだ*28

 

 * * * *

 

コンサートから、6日後の、2月19日、朝日新聞、朝刊一面に、「革命的な指揮 クルレンツィス」*29との見出しを、見つける(記事は32面)*30。感想を書いている、途中だったので、後日、読んだ*31

筆者は、音楽学者の、岡田暁生氏。

私の鑑賞した、13日の他、翌14日の、大阪公演も、言及されている。

岡田氏は、クルレンツィスの、「唯一の目的は音楽を通した「啓示」である」と言い、演奏の、宗教性を、強調する。そして、「クルレンツィスの音楽は、現代社会が一体何に飢えているかをはっきり教えてくれる。それは神であり父であり愛であり時間の中での成熟である」と、寄稿を、結んでいた。

しかし、この日、クルレンツィスが示したのは、「啓示の不在」であり、「宗教の必要」*32であった。だから、〈神〉が必要なのだと、彼は、言っていた*33。むしろ、クルレンツィス=ムジカエテルナの、音楽は(また、彼の、音楽外の、見せ方も)、時代に、掉さすものであったと、思う*34

*1:公演プログラム。

*2:モーリス・ベジャール振付《第九交響曲》(ベジャール・バレエ・ローザンヌ東京バレエ団、ズービン・メータ指揮、イスラエル・フィル、2014年、NHKホール)、公演プログラム。

*3:Teodor Currentzis | Perm State Academic Opera and Ballet Theater

*4:Teodor Currentzis | SWR Symphonieorchester | SWR Classic | SWR

*5:ムジカエテルナ専用のウェブ・サイトはないようで、ペルミ・オペラのサイトに、メンバーの氏名が、簡素に、記されている。 https://permopera.ru/en/people/troupes/orchestra_musik_aeterna/ 公演プログラムに記載された、メンバー一覧で、第一ヴァイオリンや、ヴィオラなどは、過半数が、サイトに、名前が、なかった。

*6:公演プログラム。

*7:来日公演の日程は、以下。http://www.musicaeterna2019.jp/ 5日間、4公演で、すべて、会場が、異なる。

*8:組曲第3番は、第4曲「主題と変奏」を、バレエ《テーマとヴァリエーション》(振付:ジョージ・バランシン)で、聴いたことがあり(2017年、マクシム・パスカル指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。評は、以下。 パリ・オペラ座バレエ来日公演《グラン・ガラ》を観る - op.1)、幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》は、編曲されたものを、バレエ《オネーギン》(振付:ジョン・クランコ)で、聴いたことがある(編曲は、クルト=ハインツ・シュトルツェ。最近だと、昨年11月、ジェームズ・タグル指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団で、聴いた。その時の評は、以下。 シュツットガルト・バレエ《オネーギン》を観る - op.1)。

*9:この日、第2ヴァイオリンを弾いた、田部絢子さんによると、立って弾いた方が、「エネルギーが出やすい」(公演プログラム)という。

*10:事前に聴いた、録音と、その感想は、以下(マイケル・ティルソン・トーマス指揮、ロサンゼルス・フィルハーモニック、1978年)。 https://twitter.com/amachan_taste/status/1095601238320672768

*11:その内実は、最後に演奏された、《フランチェスカ・ダ・リミニ》で、より、明らかになるだろう。

*12:評は、以下。 サロネン指揮、フィルハーモニア管の《悲劇的》を聴く - op.1

*13:コパチンスカヤは、モルドヴァ出身の、ヴァイオリニスト。彼女は、2014年、クルレンツィス指揮の、ムジカエテルナと、同曲を、録音している。 TCHAIKOVSKY Violin Concerto & STRAVINSKY Les Noces {} Patricia Kopatchinskaja

*14:プリッチンは、サンクトペテルブルグ生まれの、ヴァイオリニストで、2014年、ロン=ティボー国際コンクールの、優勝者。三者は、チャイコフスキーの、ヴァイオリン協奏曲で、共演したことが、あるそうだ。 https://aylenpritchin.com/en/biography

*15:公演プログラムの解説によると、「2度書き直した上に後年はオペラ化も企画していた」作品。事前に聴いた、録音と、その感想は、以下(アンドリス・ネルソンス指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、2011年)。 https://twitter.com/amachan_taste/status/1095601830279561217

*16:事前に聴いた、録音と、その感想は、以下(ベルナルト・ハイティンク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)。 https://twitter.com/amachan_taste/status/1095601566906642432

*17:2015年9月に聴いた、ベルナルト・ハイティンク指揮、ロンドン響の、コンサート(モーツァルトマーラー)は、指揮者の、芸術性の、欠如が、オーケストラの、技術を、完成させなかった。

*18:クルレンツィス=ムジカエテルナの芸術が、ここまで高いのは、何故なのだろう。指揮者の創造性は、もちろんのこと、若い奏者たちも、特別に、優秀なのだろう(クルレンツィスによると、「多くはコンクールの優勝歴があります」(公演プログラム))。その上、練習も、充分に、するのだろう(田部さん(Russian Conservatory 室内管弦楽団の、コンサート・マスターでもある)は、「(今回)日本に行く前は、1月20日頃から1週間かけてチャイコフスキー6曲のリハーサルをし、ペルミとエカテリンブルグ、サンクトペテルブルグ、モスクワでコンサートをします。ここまで徹底した準備は通常のオーケストラでは考えられないですよね」と言っていた)。

*19:2018年6月、クリーヴランド管弦楽団は、音楽監督の、フランツ・ウェルザー=メストとともに来日し、ベートーヴェンの、9つの交響曲を、演奏した。《大フーガ》と、交響曲第9番の、組合せを聴いたが、クルレンツィス=ムジカエテルナは、それとは違った仕方で、「善」を表現したようだ(ウェルザー=メスト指揮、クリーヴランド管の、コンサート評は、以下。 フランツ・ウェルザー=メスト指揮、クリーヴランド管弦楽団、来日公演を聴く - op.1)。ちなみに、クルレンツィスとムジカエテルナも、同年、ザルツブルク音楽祭で、ベートーヴェン・ツィクルスを、持ったという(2020年は、ベートーヴェンの、生誕250周年にあたる)。

*20:クルレンツィスは、これまで、ムジカエテルナと、チャイコフスキー《悲愴》交響曲(2017年)、ヴァイオリン協奏曲(2016年)、モーツァルト、オペラ《フィガロの結婚》(2014年)、《ドン・ジョヴァンニ》(2016年)、《コジ・ファン・トゥッテ》(2014年)、《レクイエム》(2011年)、マーラー《悲劇的》(2018年)を、録音している。http://www.teodor-currentzis.com/index.php/discography/

*21:例えば、交響曲第5番のディスク(1996年録音)。ブーレーズは、大理石のような、音をもつ、ウィーン・フィルを使って、サディスティックなまでに無機的に、作品を、振り、マーラーから、演奏家のそれと、綯(な)い交ぜになった、「豊かな歌」を、引き出した。そこには、両者間に、倒錯した、美的な、権力関係が、横たわっていた。

*22:ちなみに、この日は、ワーグナーの命日だった(1813年5月22日-1883年2月13日)。

*23:この判断は、実際に、演奏を聴いてみなければ、分からないのではないか、と思われる体験によって、得られた。クルレンツィスのいう、「他の人が見ることのできない音楽の内側」は、「未来のオケ」、「聴衆にエネルギーを与える生き物」によって、もたらされるからだろう(それは、その後、録音を聴けば、分かるかもしれない。しかし、実演を聴いていなければ(あるいは、指摘されなければ)、記録されていることに、気づかないかもしれない(だから、複製技術が発達しても、コンサートと批評の意義は、失われないだろう(必要とされるかは別として))。また、そもそも、「他の人が見ることのできない音楽の内側」は、どうしても、「他の人」には、「見ることができない」のではないか──〈音楽〉は教育できるのか──、という問題がある)。ブーレーズウィーン・フィルの、それは、「レコード芸術」、という体験による。

*24:「耳を目で覆ってはならない」。 ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演を聴く - op.1

*25:音楽学者・音楽評論家の、伊東信宏氏は、公演のちらしに、次のように書いていた。「もし自分が十代の若者だったら、今すぐ家出して、ペルミに飛んで仲間に入れてもらうだろう。もし自分が絶世の美女だったら、グルーピーになってクルレンツィスを追い回すだろう。もし自分がビル・ゲイツだったら、私財を投げ打って彼らのパトロンとなるだろう。でも今のところ、私は彼らのCDを繰り返し聴き、そして演奏会があれば聴き逃さないことで我慢するしかない。彼らの演奏を前にして、それを聴くことしかできないなんて、なんて歯がゆいことだろう」。

*26:この賭けは、負けても、「私」は、戻ってくるから、損はしない。しかし、だからといって、濫(みだ)りに、自分を賭けていると、感覚が麻痺するから、注意が必要だ。

*27:「“愛好家”[L'amateur/アマチュア](絵や音楽やスポーツや学問をたしなみながら、名人の域をねらうとか勝ち抜こうなどという魂胆はない人)。“愛好家”は、自分の享楽に連れ添って行く(《アマートル》とは、愛し、そして愛しつづける人、ということだ)。それは決して英雄(創作の、業績の、ヒーロー)ではない。彼は、記号表現のなかに、《優雅に(グラシューズマン)》(無報酬で)腰をすえている。音楽や絵画の、そのまま決定的な材質のなかに落ちついている。彼の実践には、ふつう、《ルバート》(属性のために物を搾取すること)はいっさい含まれない。彼は、反ブルジョワ芸術家である──たぶん、いずれそうなるはずである──」(ロラン・バルト佐藤信夫訳)。

*28:‘“If you want to open the door to the eternal, you have to be present in the here and now,” Currentzis told me. “It may sound like a paradox, but it’s absolutely true: you have to be here, part of the moment, a conscious participant in life — and that’s what makes you part of this eternal link.”’ 

Teodor Currentzis: the Greek-born classical music iconoclast making magic in the Urals — The Calvert Journal

*29:伊東氏によれば、「クルレンツィスは、自分たちのやっていることを、しばしば革命や戦闘に喩える」(公演プログラム)という。「革命的な~」という見出しは、新聞社によるものだろう。筆者の、音楽学者の、岡田暁生氏は、「クルレンツィスの音楽は極めて戦闘的」、と書いている。

*30:記事は、以下からも、読むことができる。ただし、「有料会員限定記事」。 https://www.asahi.com/articles/ASM2J7VMTM2JUCVL01C.html

*31:「ケータイ電話切ってください」(クルレンツィス)。演奏中、静寂は、守られる必要がある。

*32:美を感じるとき、私たちは、美を、信じている。

*33:クルレンツィス=ムジカエテルナの、「力による歪みの少ない」、中性的な、エロス(美)は、根底に、「(チャイコフスキーを)芸術的に、美的に演奏しようとする限り、われわれは、エロスから逃れない」、という、(文字通り)消極的な、傾向があった。クルレンツィスは、言う。「いつか本当にすばらしいことをしたいと思います」。この限界の、向こうでは、どんな〈音楽(エロス)〉が、鳴り響くだろう。

*34:「時代」を突き詰めた、その先にある、「革命」が、「本当にすばらしいこと」だと思う(先例として、アンディ・ウォーホルの、以下の、三点を、挙げる。《エルヴィス》(1963年、福岡市美術館https://www.fukuoka-art-museum.jp/archives/modern_arts/2631)、《ジャッキー》(1964年、アンディ・ウォーホル美術館)、《毛沢東》(1973年、アンディ・ウォーホル美術館)(以上、「アンディ・ウォーホル展」(森美術館、2014年)展示作)。それらは、消費の尖端(極)で、観る者に、(クルレンツィスの言葉を借りれば)「超越的な体験」を、引き起こすだろう。余談だが、ウォーホル(1928-87)が生きていたら、クルレンツィスを、作品化しただろうか)。ところで、《悲愴》交響曲を、「飽きるほど聴いてきたはずの「通俗名曲」」と言う岡田氏が、「時間の中での成熟」や、クルレンツィスの、「音楽におけるグローバル資本主義的なものへの敵意」を、無反省に、肯定的に、語っても、説得力に、欠けるのではないか。