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イングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)来日公演《コッペリア》を観る

7月9日、上野の東京文化会館で、イングリッシュ・ナショナル・バレエ(English National Ballet)の来日公演、《コッペリア》を鑑賞した。音楽はレオ・ドリーブで、マリウス・プティパに基づく、ロナルド・ハインド版(全3幕)。プログラムでハインド(Ronald Hynd)は、「いつも私は『コッペリア』をドリーブの音楽と見事に融合した、完璧に創られた作品だと思っており、同時にこの人間的な物語に、もっと現実味をもたらすことができないかと考えていました」と述べている。

ENBの芸術監督は、2012年以来、元ロイヤル・バレエのタマラ・ロホ(Tamara Rojo)が務めており、彼女は、ディレクターとして采配を振る一方、リード・プリンシパルとして、舞台に立ち続けている(ダンサーは上位から、Lead Principal, Principal, First Soloist, Soloist, Junior Soloist, First Artist, Artist of the Company の7階級に分かれている)。

では、私自身の、バレエに対する関心に即して、感想を述べていきたいと思う。

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スワニルダを踊ったのは、高橋絵里奈(リード・プリンシパル)。小柄なバレリーナだ。踊りには造形性が認められ、空間との有機的連関もある。その限りでは「バレエ」を感じさせた。しかし、それが〈何〉を表現しているのか分からない。第2幕では、豊かに踊ることもあったが、往々にして微温的で、造形感覚から原理がみえず、身体条件がせり出してしまう(古典的明晰に反する)。残念ながら、〈バレエ〉とは何かを教わることも、美しいと感じることもほとんどなかった(彼女の実力がこの程度ではないことは、2014年1月に収録された、ENBによる《海賊》のディスクで、ギュルナーラを踊る姿を観れば一目瞭然である*1)。

スワニルダの友人と暁の踊りを踊ったのは、金原里奈(アーティスト)。彼女も小柄なバレリーナだった。ここでは、腕の表現に注目しよう。暁の踊りで、それはなだらかに弧を描くと、やや骨張って、シャープな線となる。この対照が美しく、また、丸い顔ともあいまって、美を、多層的なものとしていた。

同じくスワニルダの友人と祈りの踊りを踊ったのは、ジャネット・カカレカ(Jeanette Kakareka/アーティスト)。米国生まれのバレリーナで、背が高く、四肢も長い(脚も細い)。印象的な瞬間があった。祈りの踊りで、高く上げた右腕から、穏やかに捩じれた体幹を斜めに横切って、前に伸ばした左脚にかけ、肉体が、溶けるように蠢いたのだ。ぞくっとした。バレエの、古典的な技法で結ばれた肉体が、刹那、解(ほど)け、現れた、不定形の〈肉〉。バレエという仕業の芸術的意図、古典美を垣間見た思いがした。

第3幕では、時の踊りとして、12人のバレリーナが群舞を踊った。そこから、群舞特有のオーラを感じたりしたわけではないが、目に入るバレリーナは皆、「バレエ」を踊っていた。

 

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演奏は、冨田実里指揮による、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(Tokyo City Philharmonic Orchestra)。プログラムによると、彼女は現在、新国立劇場バレエ団の副指揮者で、2013年に《ドン・キホーテ》を振って指揮者デビューしたという(おそらく、バレエ指揮者としてのデビューだろう)。

美しい《コッペリア》だった。本当に東京シティ・フィルが演奏しているのかと思うくらい、いままでと、音楽が質的に違う。技術は高く(ミスすらほとんどなかった)、音色は均(なら)され、そして何より造形的。これまでバレエ会場で聴いた東京シティ・フィルの演奏には、これが決定的に欠けていた。上手い演奏でも、音楽の平板を逃れなかったのだ。それが今や、バレエでも踊るかのように、かたちをつくっている。東京シティ・フィルは、そのように演奏しないのではなく、できないのだと思っていた。そしてそれは、オーケストラの芸術性に、根本的な変化がもたらされなければ、決して到達しえないステージだと思っていた。ひいてはそれが、日本のオーケストラと、海外の、いわゆる一流と呼ばれるオーケストラの、顕著な違いだと思っていた。3月に、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏する《魔笛》を聴いたが(川瀬賢太郎指揮、神奈川県民ホール*2)、この時も、その造形性に驚きを禁じ得なかった。川瀬のモーツァルトが、しばしば、線の表面が撥ねるようだったのに対し、冨田の棒は、あくまで古典的な節度を守る。そのなかで、時に情感豊かに、時に快活に、ドリーブの歌を歌うのだ(ひょっとしたらそこには、前日に同曲を振った、English National Ballet Philharmonic の音楽監督、ギャヴィン・サザーランド(Gavin Sutherland)の解釈・成果も含まれていたかもしれない)。また、音楽が盛り上がっても(例えば第3幕、このバレエの最後)、徒(いたずら)に大きな音は出さず、品を落とすことがなかった。単に伴奏にとどまることなく、それ自体、芸術的でありながら、積極的に踊りと交渉していたように思う。

東京シティ・フィルが、神奈川フィル同様、例えば、ウィーン・フィルや、シュターツカペレ・ドレスデンのように、強い個性をもったオーケストラだとは思わない。しかし、いや、だからこそ、完成度の高い演奏では、指揮者の芸術性が際立った、充分に美しい〈クラシック音楽〉を聴かせることができる。

同管がこれからも、このレヴェルを維持するのか予断はできない。さしあたり、来日公演後半の演目である、《海賊》の演奏に耳を傾けたいと思う。