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op.1

ballet/orchestra/Mozart/Mahler/art

マリインスキー・オペラの「エフゲニー・オネーギン」を聴く

10月16日、東京文化会館で「エフゲニー・オネーギン」(抒情的情景/Lyric Opera チャイコフスキー作曲)を鑑賞した。マリインスキー・オペラ、5年ぶりの来日公演で、芸術総監督(Artistic and General Director)のワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev)が指揮を務めた。演奏を中心に感想を述べていこう。 

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マリインスキー劇場管弦楽団(The Mariinsky Orchestra)は細い線をもつオーケストラで、温かく確かな質感を伴いながらも音色には透明感があった(チェロやコントラバスに至るまで)。それは去年のマリインスキー・バレエの来日公演で演奏したオーケストラではあっただろう。しかし少なくとも芸術的完成度においては質的に異なっていた。

マリインスキーの透明感のある音色は、重なり合って音楽となっても濁ることがなく、線も明瞭を失わない。そこでは音どうしがお互いを尊重して慎ましく、しかし芸術的に美的に存在していた。この室内楽的な「澄んだ静けさ」は演奏の相当な部分を占めて、ゲルギエフマリインスキー劇場管のユニークな芸術性を示していた。

抑制的な演奏は他にもあるだろう。しかしその現われ、抑制がもたらす音楽的な効果が独創的だったのだ。それは抑制をくわえられた部分がそぎ落とされ、その効果だけが音楽となったような、あたかも〈無〉からふんわりと音楽が生じてきたような繊細と静謐を帯びていた。マリインスキー劇場管が高い芸術性を備えたオーケストラであっても、指揮者の一貫した棒──〈無〉の視点──がなければこの徹底性はない、そう思わせるほどに端的に美しかった。この演奏は両者の芸術性が不可分に結びついたものだろう。

彼らの芸術性が顕著だったのはテンポをぐっと落とした時で(例えば「手紙の場面」や「トリケの歌」)、時が止まってしまいそうな、あるいは、時間がほとんど空間に転化してしまったかのような音楽だった。そこでは永遠が意識され〈無〉が濃厚に示唆されていた。

かと思うときびきびとしたテンポでオペラにめりはりを与えつつ(ここでは抑制をくわえられた部分も現れる)、音楽の繊細と静謐を引き立てていた。

世界で最も多忙な指揮者の一人であろうゲルギエフ(この来日公演でも昼にオペラを振ったあと夜にはコンサートを開いたりしていた)から、このような質の音楽が聴こえてきたことには少し驚いたが、1988年から音楽監督(Music Director)、そして1996年からは芸術総監督を務めるマリインスキー劇場管との密な関係がこれを可能にするのだろうか。

この繊細極まりない音楽に耳を傾けていると、この劇場のもう一つの柱、マリインスキー・バレエが思い出された。マリインスキーのほっそりとしたバレリーナたちが、軽やかに重力と戯れつつ優雅に踊るとき、その先には〈音楽〉が眼差されていたのではなかったか。肉体を空間に溶け込ませて不可視の〈肉体〉を示すこと。つまり〈音楽〉となること。たとえば中空に舞うロマンティック・チュチュのふんわりとした質感そのものが肉体の残り香であるような…。

この「エフゲニー・オネーギン」は彼女たちの(本当の)欲望の対象、あるいは「究極のコール・ド・バレエ」──。ゲルギエフマリインスキー劇場管の演奏はそんなことも思わせた。

ところで、ゲルギエフは昨年9月、ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団(The Munich Philharmonic)の音楽監督に就任した。このオーケストラはロリン・マゼール前音楽監督の指揮で聴いたことがあるが、その音楽は自律した一つの生き物のように存在していた。これも「音どうしがお互いを尊重」しなければ生まれない芸術で、phil(愛)-harmonic(調和)とは何かを教えられたのを覚えている。今回の演奏を聴いて、このオーケストラがゲルギエフを指揮者に選んだ理由が少しわかった気がした。

 

次に歌手たちをみていこう。

タチヤーナを歌ったのはエカテリーナ・ゴンチャロワ(Yekarerina Goncharova ソプラノ)。 声の音色はとても滑らか。「手紙の場面」では抑制された歌を聴かせ、最後のオネーギンとの「大詰め」では〈無〉を思わせる表現でタチヤーナを造形した。

オネーギンを歌ったのはロマン・ブルデンコ(Roman Burdenko バリトン)。声に艶と張りがあった。「大詰め」ではテノール歌手のような音色の滑らかさを示し(低い声に特有の粗さは若干認められたものの)、ゴンチャロワと呼応して繊細に歌った。

人物ではタチヤーナ、場面では「大詰め」がゲルギエフマリインスキー劇場管の演奏と最も芸術的に一体感があっただろう。

レンスキーを歌ったのはディミトリー・コルチャック(Dmitry Korchak テノール)。声の音色は均質で(全く滑らかというわけではない)明瞭に歌った。

グレーミン公爵を歌ったのはエドワルド・ツァンガ(Edward Tsanga バス・バリトン)。声は硬質、響きはドライだった。

他の歌手もオルガ(ユリア・マトーチュキナ Yulia Matochkina メゾ・ソプラノ)、トリケから、ザレツキー、中隊長にいたるまで声の音色は均質、線も明瞭で技術的にも申し分なかった。

合唱はマリインスキー劇場合唱団(The Mariinsky Chorus)。最も芸術性を感じたのは第1幕第1場、農民たちが登場する場面で歌われた合唱だ。抑制が利いてふくよかな歌がそこから滲み出ていた。

 ゲルギエフマリインスキー劇場管の演奏はその「澄んだ静けさ」でソロや重唱をやさしく包み込み、合唱と音楽を織りなす。お互いを配慮する姿勢は歌が入っても変わらず、歌もまた慎ましいことを浮き彫りにしていた。マリインスキーの「エフゲニー・オネーギン」はこのような統一感のあるオペラだった。

演出(アレクセイ・ステパニュク Alexei Stepanyuk 中国国家大劇院との共同制作 2014年2月プレミエ)は注意して観なかったので評価することはできないが、音楽を損ねるようなこと(例えば大きな音を出して音楽を消してしまう等)はなかった。また見た限りでは舞台美術(アレクサンドル・オルロフ Alexander Orlov)や衣裳(イリーナ・チェレドニコワ Irina Cherednikova)は洗練された気持ちのよいものだった。