op.1

ballet/orchesrta/criticism

ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団の来日公演を聴く

                              

                              ──シューベルト

 

11月9日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester)のコンサートに足を運んだ(横浜みなとみらいホール)。指揮は、名誉カペルマイスター(楽長)のヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)。札幌、横浜、東京をまわる日本公演(3つのプログラムによる5公演)の二日目だった。「創立275周年記念ツアー」と銘打たれている。

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ゲヴァントハウス管は、2014年の来日公演で、当時のカペルマイスター、リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly/2005-16年)の指揮で、マーラー交響曲第7番《夜の歌》を聴いている。オーケストラは、独特な芸術性をもち、技術も高く、シャイーの解釈と相俟って、「明るい」マーラーだった。それは、第一級の芸術だったろう。しかし、そこに、私がマーラーを聴く理由は見当たらなかった。これは「クラシック音楽」なのだろうか。そのような疑問さえ抱いた。以来、シャイーとゲヴァントハウス管は、縁遠い芸術家、オーケストラと認識していた。では何故、今回、この演奏会に足を運ぼうと思ったのか。去年、クルト・マズア(Kurt Masur/1970-96年)の指揮する、メンデルスゾーンの序曲集を、ディスクで聴いたことがきっかけだった(1974年録音、ドイツ・シャルプラッテン)。この楽団特有の、線の太さ、音色の粗さ、乾きを含んだ響きが、線の太さはそのままに、マルセル・デュシャンの《階段を降りる裸体No.2》を思わせる多層性をともなって、洗練された古典的造形をかたちづくっていたのだ。腑に落ちる一枚だった。来年3月には、新しい楽長として、アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons)が着任する。彼なりの、ゲヴァントハウス・サウンドを追求するだろう。その前に、かつての楽長で、退任後も、密な関係を保つといわれる、ブロムシュテット(1998-2005年)の指揮で、ゲヴァントハウス管の音楽を聴いてみたかったのだ。《ザ・グレイト》は好きな曲だ。昨年聴いた、バンベルク響との《未完成》、《田園》の充実も、後押しとなった(ブロムシュテットは、このオーケストラの名誉指揮者だが、首席指揮者や、首席客演指揮者などのポストに就いたことはない)。蓋を開けてみれば、マズアの仕方とも、バンベルク響への仕方とも違う、想像していなかった音が、広がっていた。

 

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一階席をざっと見る限り、半分程度(以下?)の入りだった。前回も、空席だらけだったのを覚えている(サントリーホール、日曜夜公演。ちなみにこの日は、平日夜公演)。

開演時間になり、楽団員を拍手で迎える。コンサートマスターが、ベルリン・フィルコンサートマスターアンドレアス・ブーシャッツ(Andreas Buschatz)氏に似ていると思ったら、本人だった。2017年、第一コンサートマスターとして、ゲヴァントハウス管に移籍したらしい(ベルリンでは、第一コンサートマスターの次の「コンサートマスター」だった)。ヴァイオリンは両翼配置で、コントラバスは下手にいる。

演奏されたのは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77。1879年、作曲家の指揮、ヨーゼフ・ヨアヒムのヴァイオリンで、ゲヴァントハウス管によって初演された(今回の来日公演は、ゲヴァントハウス管が初演した作品によって、プログラムが組まれている。他の2プログラムは、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とブルックナー交響曲第7番、そして、ブラームスドイツ・レクイエムである)。ヴァイオリン独奏は、レオニダス・カヴァコス(Leonidas Kavakos)。ブロムシュテット指揮のゲヴァントハウス管とは共演したことがある。また、彼は2013年、シャイーの指揮で、同曲を、同管と録音している。

ゲヴァントハウス管らしい音がする。技術は相変わらず高い。両者は先月から、日本で演奏する曲目に、ベートーヴェンの、ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲を加えたプログラムで(この作品も、ゲヴァントハウス管によって初演されている)、本拠地ライプツィヒを起点に、ロンドン、パリ、ルクセンブルク、バーデン・バーデン、ウィーン、ブダペストをまわっており、この後、台湾でも演奏する。当初の目的である、ゲヴァントハウス管の、技術的な問題のその先にある、芸術性に集中できることに安堵しつつ、じっと耳を傾ける。

多分にたおやかなブラームスだ。音楽は、緻密ながら、いかめしくない。オーボエが、語りかけるように歌っている。ヴァイオリン・ソロの後ろでは、室内楽的、あるいは、内省的と呼ぶには、おおらかな静謐が、じんわりと滲む。ヴァイオリンやフルートなど、線が細く、輝度があるかと思えば、くすんだ、ドライな色を出し、いろいろに変化する。第2楽章では、第一ヴァイオリンが、冷笑を微かに浮かべた。ヴァイオリン群、チェロ群などは、その広がりのなかで、アクセントの付く場合があり、絵画的に聴こえた。そもそも、オーケストラ音楽は、ちょうど舞台の大きさをもつ芸術作品で、時間芸術であると同時に、空間芸術でもあり、聴く=観る場所によって、受ける印象は異なる(みなとみらいホールは「囲み型シューボックス形式」のホールだが、鑑賞者は、美術館と違って、作品のまわりを移動せず、決められた一点で美的体験を構築する)。ゲヴァントハウス管とブロムシュテットブラームス。安易に、音楽的、と呟きたくなるほど、言葉が、音楽に対抗することを、半ば、あきらめている。

おだやかな、内面的な音楽と感じていると、音の物質性を強調した、外面へと、位相を変える。その際、硬質に音を立たせて、造形性を際立たせもする。ブロムシュテットは、ゲヴァントハウス管の太く粗い「乾きを含んだ響き」を抑制的に扱うが、時折それが、特に管に、物から意味を剥奪された「モノ」の様相を呈して、尖端的に顔をだす。音楽とは、作品として、すぐれて物理的な現象でありながら、芸術家、また、鑑賞者の美的体験の、精神的な発露でもある。そのあわいを攪乱するように、彼らのブラームスは進行する。

カヴァコスのヴァイオリンは、一貫してつややか(使用楽器は、1734年製ストラディヴァリウス'Willemotte')。第1楽章、音が上滑りしていく時の、静かな高揚に息を飲む。同楽章のカデンツァでは、象牙細工よろしく音を彫琢した。一方、音が重なると、滑らかな表面は、均質に粗くなるから、オーケストラの外面性と共鳴して、より一層、協奏曲としての一体感が増した。

 

アンコールとして、バッハの、無伴奏ヴァイオリンが演奏された(会場には「無伴奏パルティータ第3番 第3楽章 "サラバンド"」と掲示されていたが、第3番にはサラバンドがない)。カヴァコスのバッハは柔らかい、と感じながら、ブロムシュテットブラームス解釈、オーケストラの芸術性の引き出し方が、カヴァコスの芸術性を尊重したもので(も)あることに気づく(ちなみに彼は、指揮者としても活動している)。ある部分のふくらみなど、弱すぎず強すぎず、弦をおさえる指のはらの、線と質感を、精確にうつしとったような、繊細そのものという感じだった。演奏が終わると、数秒、完全な静寂が、ホールを満たした(コンサート終了後、サイン会が予定されていたようだが、疲労のためキャンセルしている)。

 

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この演奏会は、横浜みなとみらいホールの主催で、今回、チケットを購入するのを機に、その会員組織「みらいすとクラブ」に入会した。その特典で、休憩時にコーヒーをいただきながら、後半の演奏に、胸をふくらませていた。 

 

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後半に演奏されたのは、シューベルト交響曲第8番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》。当時のカペルマイスター、メンデルスゾーン(1835-47年)が、1839年に初演した(横浜公演用のプログラムは、「1828年11月19日に他界したシューベルトを追悼する演奏会が12月に開かれ、このとき演奏されていた(初演)」が、「ウィーンの初演は限られた友人への追悼演奏会であり、1839年ライプツィヒでの公開初演の音楽史的な価値はゆるがない」としている(平野昭氏))。

前曲とは、大きく異なる演奏方法だった。まず、音色が粗い。透明なところが少なく、「乾きを含んだ響き」を全体に行(ゆ)きわたらせるように音を出す。ブラームスのヴァイオリン・コンチェルトでもそうだったが、ブロムシュテットは、バンベルク響で聴かせたような、古典の香り高い、端正な造形はみせず、むしろ、モダンにオーケストラを指揮する。各パートは独立性が高まり、統一感はあるものの、調和というより、ここでは全く、音楽の、物質的な側面を前面に押し出す(ミュンヘン・フィルとは対照的だ)。しかし、表面的な、無味乾燥には陥らない。それらを束ねているのは、シューベルトの歌だ。いつ果てるとも知れない歌。微笑みながら、目の奥は、絶望を見据えている、やさしい歌。そっと寄り添って、ただいてくれる。そんなふうに聴いていると、曲のそこここで、物質が生々しいのに、しばしば出くわす。不釣合もはなはだしい。物質、物質、とせり出して、〈肉〉と深まるわけがないではないか。しかも、うるおいから一定の距離を置く、ゲヴァントハウス管の演奏で。しかし、そう聴こえてしまうと、もう、そうとしか聴こえなくなる。絶望、絶望、希望。祈りの歌。ブロムシュテット=ゲヴァントハウス管の《ザ・グレイト》は、シューベルトの歌と重なって──juxtapose──、底の抜けた「明るさ」を帯びている。舞台に目を遣れば、 齢九十になる「名匠」が、世界最古の市民オーケストラである「老舗の名門」(1743年創立)を振っている、とも見えるだろう(ブラームスでは確認しなかったが、シューベルトでは、厚いスコアを閉じたまま指揮していた)。しかし、耳を目で覆ってはならない。私たちは、この狂的なシューベルトを、耳に刻まねばならない。

 

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ゲヴァントハウス管は、ロンドン響と並んで、扱いの難しいオーケストラだと思う(ロンドン響も、管を中心に、乾いた響きを含む)。それをブロムシュテットは、楽団固有の音を、最小化/最大化することによって、その振幅のうちに、この名器を味わわせた。