op.1

ballet/orchesrta/criticism

パリ・オペラ座バレエ来日公演《グラン・ガラ》を観る

3月10日、パリ・オペラ座バレエ(Ballet de l'Opéra national de Paris)の来日公演、《グラン・ガラ》を鑑賞した。《ラ・シルフィード》に続く二つ目(後半)のプログラムで、会場は同じく東京文化会館。トリプル・ビルの構成となっており、作品は、初演の早い順に並んでいる。ダンサーを中心に感想を述べていこう。

f:id:unamateur:20170602104525j:plain

ジョージ・バランシン振付けの、《テーマとヴァリエーション(Theme and Variations)》(1947年初演)で幕開きとなった。音楽は、チャイコフスキー作曲、管弦楽組曲第3番から第4楽章。ミリアム・ウルド=ブラーム(Myriam Ould-Braham エトワール)とマチアス・エイマン(Mathias Heymann エトワール)が主役を踊った。全体は(おそらく)6つの部分に分かれており、群舞が入る。演奏は、マクシム・パスカル(Maxime Pascal)指揮による、東京フィルハーモニー交響楽団(Tokyo Philharmonic Orchestra)。

ウルド=ブラームは細いバレリーナだ。そして、淡雪のように白い。肉体の肌理は、繊細にして、爽やか。汗が滲んでも、さらっとしている。踊りもそのことを反映して、柔く、軽やかだった。一方、造形は堅固。あいまって、洗練された優美を示す。それは、elegantというよりむしろ、gracefulといいたくなるような優雅さだ。例えば、まろやかに伸びた脚。彼女はそれを、決して上げすぎない。踊りに節度があり、厳しい教育に鍛えられた、上品を感じさせる。彼女の属するバレエ団の淵源が、ルイ14世の創設した舞踊アカデミーにあることを思い起こさせる芸術だった。

エイマンは、背中に透明な羽が生えているかのように、あるいは、皮膚の下には羽毛が詰まっているのではないかと思わせるほど、ふわっと跳躍する。しかも、その連なりには抑揚がついている。空気をつたってとどく音楽の響きを利用して、中空に舞い上がるような、軽やかで、音楽的な踊り。彼の踊りは正に、舞う、とよぶに相応しいものだった。かつて彼の踊る《マンフレッド》(振付:ヌレエフ、音楽:チャイコフスキー)を観て、予想もしない方向へ、突如として滑空するような踊りに目を瞠(みは)ったが(2015年 東京)、その原点をみる思いがした。

群舞は、群舞として踊るパートもあれば、主役と踊るパートもあった。それは、理性的な規律を感じさせる踊りだった。ダンサーの身体にはばらつきがなく、際立って背が高いとか、細いとかいうバレリーナはおらず、その逆もない。皆、充分に細く、充分に背が高い。肉体そのものに起因するオーラはない。また、踊りは所々綻びて、一糸乱れぬものではなかった。しかし、単に合わせる以上の、理性という価値を認めるのは、踊りが美しく、背後にあって、それらを一挙に統べる一点を、静かに感じさせるからだ。整然とならんだ男女の白い脚(彼ら/彼女らは白いタイツをはいている)、そして、バレリーナたちの、ひとつひとつが小さな太陽のように、引き締まって黄金色(こがねいろ)に輝く円い背中(照明:マーク・スタンリー Mark Stanley)。オペラ座バレエの群舞は、それらが醸す〈肉〉を、高い純度で味わわせてくれた。この官能性、それは、理性の意図したものに違いない(ちなみに、ここで群舞を踊ったほぼすべてのダンサーは(バレリーナは全員)、前に鑑賞した《ラ・シルフィード》でも群舞を踊っていたが、そこでは、芸術性はおろか、高い技術をも認めることができなかった)。

 

前半を締めくくったのは、ジェローム・ロビンズの《アザー・ダンス(Other Dances)》(1976年初演)。ショパンピアノ曲マズルカop.17-4、マズルカop.41-3、ワルツop.64-3、マズルカop.63-2、マズルカop.33-2)にのせた、男女のデュエットだ。ドロテ・ジルベール(Dorothée Gilbert エトワール)とジョシュア・オファルト(Josua Hoffalt エトワール)が踊った。演奏は、オペラ座バレエ、リハーサル・ピアニストのヴェッセラ・ぺロフスカ(Vessela Pelovska)。舞台下手で弾いた。

ジルベールも細いバレリーナで、どこか華奢な感じがある。去年、彼女の踊りを観たとき、その、骨肉が相剋するような肉体の凄みに、息を呑んだ覚えがあるが(特に、1月、8月と東京で観た、《瀕死の白鳥》における背中)、この日は、とても細いながらも、健康的な様子だった。この作品は、古典性を強調するような振付けではない。しかし、彼女は、造形感覚を失うことなく、ショパンの詩情と一体となって踊った。その姿を観ていると、じんわり、穏やかで温かなものが滲み出てくる。音楽=肉体のエッセンスが、踊りによって、ゆっくりと抽出されてきたような、そういう趣のある〈肉〉。いままで体験したジルベールとは違う、新たなバレエ芸術の発見だった。

パートナーのオファルトは、先だって、《ラ・シルフィード》のジェイムズを観ている。残念ながら、その踊りを評価することはできなかったが、ここでは芸術性を感じさせた。確かに体幹はやや太く、柔軟性も低い。しかし硬直してはおらず、四肢の要となって、一貫した肉体芸術となっていたのだ。その四肢は長く見え、しなやかに躍る。体幹とのバランスが独特で、ユニークなバレエだった。この踊りが芸術性を発揮できないとどうなるか。ジェイムズの空中分解ぎみの四肢は、その典型例であったように思われる。 

 

* * * * *

 

後半は、バンジャマン・ミルピエ(Benjamin Millepied)振付けによる《ダフニスとクロエ》(音楽:ラヴェル、2014年初演)が上演された。日本初演。ミルピエは、パリ・オペラ座バレエの前芸術監督。バランシン、ロビンズが芸術監督を務めた、ニューヨーク・シティ・バレエの出身だ。

クロエを踊ったのは、アマンディーヌ・アルビッソン(Amandine Albisson エトワール)。彼女は、前半に主役を踊った二人のバレリーナとは少し異なり、比較的肉づきがいい。しかし、充分に古典的な体つきをしており、技術も申し分ない。ジルベール同様、日に焼けた肌をしている。彼女の肉体には、完成度の高いバレエの技術をもってしても、エロスに昇華しきれない部分が、セクシュアルな肉として残り(例えば背中)、それが触媒となって、エロスの度合いを強めているように感じられた。

ダフニスを踊ったのは、マルク・モロー(Marc Moreau スジェ)。アルビッソンとともに踊ることが多く、彼女が踊れば、そちらを観たためか、あまり印象に残っていない。ただ、悪いという感じはしなかった。

リュセイオンを踊ったのは、ヴァランティーヌ・コラサント(Valentine Colasante プルミエール・ダンスーズ)。肩から背中にかけて、やや大きく、それ自体、造形的。古代彫刻のように豊かだった。踊りも、確かな技術に裏打されていた。

ドルコンを踊ったのは、アリステル・マダン(Allister Madin スジェ)。彼は、踊りの造形性が高かった。ひとつひとつの振りに、丁寧にかたちを与えてゆく。

ブリュアクシスを踊ったのは、フランソワ・アリュ(François Alu プルミエ・ダンスール)。二の腕が太い。高度な技術を要する踊りが含まれていて、テクニックに秀でるダンサーであることが分かった。

群舞はここでも統一的だ。また、9人のバレリーナの背中が眩しい。それらは《テーマとヴァリエーション》とは対照的に、白い光を湛えて不思議に落ち着いている(照明:マジッド・ハキミ Madjid Hakimi)。肉の厚みが、わずかに膨らむ光と絡まり合う。そのうち幾つかは、長い髪が垂れて、冴えた官能を無造作に引き立てている。思えばこの日、舞台に立った(おそらく)すべてのバレリーナは、(トゥシューズをはいて)背中を露にして踊り、主役から、ソリスト、群舞に至るまで、ことごとくが、ユニークな美となっていた。

演奏は、再びパスカル指揮の東京フィル。弦による、とても小さい音の表現が平板で、対して、とても大きい音による表現が、それをカバーするもののように聴こえる特徴があった。合唱は栗友会合唱団。声は、舞台両脇に置かれたPA(?)から流れているように聴こえた。

なお、12日には、同じプログラムが、同じ主要ダンサー(群舞は不明)によって上演された。

 

* * * * *

 

この来日公演は本来、ミルピエによって率いられるはずであったが、彼はそれを待たずしてオペラ座を去ってしまった。プログラムの記事によると「芸術活動に専念したい」というのが理由らしい。芸術監督就任後、ごく短い期間での辞任。ミルピエ時代のオペラ座を知ることなく、バトンは、オーレリ・デュポン(Aurélie Dupont)へと渡された。パリ・オペラ座バレエの美と芸術にとって、ミルピエとは何者であったのか。この(来日)公演は、その痕跡をどれほど残していただろう。