「何」をめぐって(批評覚書2)
熊川「(メンバーの)循環が激しいとすればやはり僕のジャッジが厳しいからだと思います。…しかし自分とバレエとの関わり方において僕は嘘をつきたくない。そのダンサーがトップに立つことができる人間かどうかというジャッジはぶれずに厳しくやってきたつもりです」(カンパニー20周年によせて)。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
評論のジャッジ(判断)に目を転ずれば、そつのない評にはあまりときめかない。それは「自分とバレエとの関わり方」が弱い(見えない)から。あるいは、その点「嘘をついている」かもしれないから。ならば、「評論が読まれない」のも、仕方ないと思う。言葉を専門としない芸術家の言葉の方が響く現状。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
以前、批評を批評する基準として文体を挙げたが、美しい文章がよいと思う。それはいわば、文章の「顔つき」。そこに、「自分とバレエとの関わり方」が滲みでると思う。文体は、舞台を見詰める眼差しの変奏であり、審美眼の尺度。「美人投票」で入賞するような評にはあまりときめかない。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「文芸時評「文体とは何か」(磯崎憲一郎、朝日新聞)」(2018年6月6日付ブログ)https://t.co/f2axJWJ7Id
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
27日月曜の朝日新聞(夕刊)は、上岡敏之を取材。「新日フィルに限らず、日本のオーケストラは統制がとれすぎているという。「間違ったり人に迷惑をかけたりしたくない気持ちを乗り越えて、何をしたいかを表してほしい」」。演奏は上手くとも、音楽が平板なのは、そういう理由もあるのかもと納得。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
ひょっとしたら、バレエの群舞も、同じ理由なのかもしれない。贅沢な話だが、鑑賞者は、100%上手くとも、芸術性がなければ、満足しない。その先にある「何」を観に、聴きに、劇場やコンサートホールに足を運ぶからだ。だから、多少、アンサンブルが乱れても、「何」が提示されれば、満足できる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
今年3月のNBSニュース、「新・起承転々」は、ノイマイヤーの言葉を引用していた。「芸術の目的は人間の限界を見せるためではなく、限界の向こう側に何があるか見せることだと思う」。両者の「何」は、熊川の言う、「自分とバレエ(芸術)との関わり方」にも重なってくると思う。評論はどうだろう。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
この「何」に対する構え。それが教養だと思う。教養は、他でもない、自分が自分でいることを、可能にしてくれる。その「自分」を表現できるのは、一部の芸術家に限られる。しかし私たちは、そちらに向き、「自分」を感じることができる。そして、違う方を向く、「他者」を見ることができる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「〈自分〉を確保する方法… その方法を、教養と呼んでみたい。… それを通じて、〈自分〉に触れること。そうして、深めることはできるが、掴みとることは「窮極的には不可能」と思われる〈何ものか〉」。 https://t.co/MZLMJTylol (2018年5月10日付ブログ)
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「美の体験をつうじて、各々が、自身に、内なる〈ニジンスキー〉を見出だすこと。ちょうど、ノイマイヤーがそうしたように。これは、狂気を描くにとどまらず、ひとつの狂気なのだと気づいたとき、血の気がひいた。しかし、彼は、芸術にとどまりつづけた。それは、ひとつの倫理だろう」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「誰もが、ノイマイヤーやリアブコのように、〈ニジンスキー〉を「生きなおす」ことができるわけではない。それは、一部の芸術家に限られる。ならば、せめて、その、表現の倫理を、忘れないようにしたい」。 https://t.co/coYHhZPUVY
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「何」に対して嘘をつくことは、「自分」を否定することにつながる。「他者」への想像力も、弱まるだろう。平気で嘘をつけるとすれば、「何」がもはや、「自分」とは関係ないから。そうなった瞬間、仮面は、素顔となる。芸術はなくとも、構えること、感じること、想像することは、手放したくない。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
しかし、芸術が存在し続けるのも、「何」を、完全には、表現し損ねてきたから。「自分」と、出会い損ねてきたから。カステルッチ演出の《マタイ受難曲》で、演奏が始まると映し出される ‘ERROR’ の語は、それを含意するかもしれない。 https://t.co/IeUmyjUlnj
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
決定的な「すれ違い」。鑑賞者は、芸術家は、「何」と、決定的に、すれ違う。自分が自分を感じる瞬間は、自分を決定的に(critically)失う瞬間でもあった。その時、エロス(愛)は、救いとして、もたらされるだろう。批評(criticism)は、それらをめぐって、組織される。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「“愛好家(L'amateur)”は、自分の享楽に連れ添って行く(《アマートル》とは、愛し、そして愛しつづける人、ということだ)。それは決して英雄(創作の、業績の、ヒーロー)ではない。… 彼は、反ブルジョア芸術家であるーたぶん、いずれそうなるはずであるー」(ロラン・バルト)。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
フランシス・ベーコンの作品は、額縁にガラスが嵌められていることがある。それは、「ベーコン自身が、ガラスによって作品と観客に隔たりができることを好んだため」という(2013年4月10日 朝日夕)。その「隔たり」には、「自分」が映っているし、作品を見る/見ない「他者」も映っている。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
ノイマイヤー「ヴェニスに死す」では、舞台中央に、鏡が設えられ、観客は、ダンサーの、舞台から、ちょうど見えない方と、自分たちの姿を、そこに認める。「あなた方の観ているものの背後には、あなた自身が潜んでいるのですよ」。ノイマイヤーに、そう言われた気がした。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
余談だが、東京国立近代美術館に収蔵されている、ベーコン「スフィンクスーミュリエル・ベルチャーの肖像」(1979年)は、オブザーバー紙に掲載された、オネーギンを踊るマリシア・ハイデの写真が、参照されたと言われている(1978年6月4日付)(2013年 フランシス・ベーコン展図録)。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
この11月、彼女が在籍した、シュツットガルト・バレエが来日し、「オネーギン」を上演する。初日に同役を踊る、アリシア・アマトリアンには、ベーコン的な肉体美がある。 https://t.co/Jsvkiey5Q7
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
「専門家なんて馬鹿げたものです。私は批評家を信頼したこともありません。大体絵画のことなど何も分かっていないからです。絵画を理解している人などごくわずかしかいないでしょう。知識は要らないのです。→
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
→たとえ絵画の歴史をよく知り、それに関連するあらゆることを知っていても、イメージとの本来的な結びつきがなければ、何か新しいものに出会ったときに全然そんなものは役に立たないのです」(フランシス・ベーコン)。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
私は絵画を知っているか? 私はバレエを知っているか? それは「自分」がよく知っているはず。そして、この「本来的な結びつき」こそ、「知」だと思う。それが、自分が自分を知る方法としての、教養だと思う。 https://t.co/hlTrJ4XDTd
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
土がなければ、畑は耕せないように、知識がなければ、教養は深まらない。しかし、いくら土を積んでも、あるいは、むやみに畑を耕しても、教養は身に付かない。作物を食べて、各自「判断」することが大事だと思う。すると、一人ひとり、違う畑ができるし、違うものができる。それが「自分」になる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
これは「ベーコンとメネケスの対話」に収められているが、「対話」は成立していない。「ミシェル・レリスの著書をご覧下さい。非常に優れた仕事です。彼は、私に一度たりとも尋ねたりしませんでしたよ。私自身から何も知ろうとしなかったのです」。「ここに絵画がある、ただそれだけです」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
指揮者キリル・ペトレンコは、インタビューを受けない理由を、次のように述べる。「理由はいろいろとあるんですが、自分の仕事については語らないほうがいいでしょう。指揮者は、指揮台から音楽を通じて皆さんに語りかけるもの」。口調は対照的だが、案外、ベーコンの考えに、理解を示すかもしれない。
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「バイエルン国立歌劇場2017年日本公演 開幕記者会見レポート」 https://t.co/FMzPVnoWaz
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ベーコンが評価するという映画監督、ジャン=リュック・ゴダールなら、こう言うだろうか。「私が思うに、映画は……私にとって自然なものでした。… 私が自分は(文学や絵画、音楽に)精通していないというとき、いや、私は書物を、いくつかの小説を知っているし、→
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→ある種の音楽などを聴きました。でも、私は窮屈な思いはしていません。ベートーヴェンの3つの音符を聴けば、私は「ベートーヴェンを知っている」と言います。このベートーヴェン、この3つの音符を知っているわけですから」(「「フォーエヴァー・モーツァルト」のために」)。
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6月のクリーヴランド管来日公演、ベートーヴェン・ツィクルスで、ウェルザー=メストがプログラムに寄せた長文は、読みごたえがあった。ここで、彼にとっての「何」は「善」であった。現代、アクチュアルな(音楽)思想。11月のウィーン・フィル来日公演を前に、読んでみるのもいいかもしれない。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
このベートーヴェン・ツィクルスは、指揮者によって、「プロメテウス・プロジェクト」と名付けられた。「ギリシア神話に登場するプロメテウスは、地上の人間たちに知識・勇気・力を授けるために神々に抗った英雄です」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
ウェルザー=メストは、プログラムで、「私たちは皆、ヒーローを必要としている」と述べた。演奏(特に《大フーガ》)は、「濃密な〈(反-)肉体〉」を示したというのに。私たちは、きっと、「英雄」を必要とするほど、弱くはない。でも、不要とするほど強くもない。彼は、演奏(と批評)でそう言った
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
ウェルザー=メストは、文章で、「判断(と行動)」の大切さを力説していた。「「大フーガ」に耳を傾け、理解し、この問いに答えるのは、私たち一人一人である──プロメテウスが判断し、行動に移したように。そして、この音楽の「火」の力を享受する役割を担っているのも、私たち一人一人である」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
ペトレンコのように、インタビューを受けないのも見識だが、ウェルザー=メストのように、芸術家が、「自ら直接、まとまった文章を発表するのも、見識だ」。 https://t.co/XTYiwK8Wnr
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
先の記事で上岡は「「どんな曲にでも物語を見つけてドラマにしてしまう」のがオペラ指揮者の癖」と述べていた。エドワード・ガードナーの「「オペラ指揮者」の振る、マーラー」を映像で聴いたことがある。交響曲第5番、英国王立音楽院、2016年 https://t.co/3Gmi5RJHLp
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日
他に、ビシュコフ、ピノック指揮による、英国王立音楽院の演奏を聴いたが、いずれも芸術的だった。同音楽院は、この六月に来日して、東京藝術大学と交流演奏会をもったようだが(指揮はピノック)、いつか、単独でコンサートを開いてほしい。https://t.co/mH4nw22O12
— unamateur (@amachan_taste) 2018年9月3日