op.1

ballet/orchestra/criticism

ヤンソンス指揮、バイエルン放送響のマーラーを聴く

11月27日、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)指揮、バイエルン放送交響楽団(Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks)の来日公演に足を運んだ。日本(5公演)、台湾(3公演)、韓国(2公演)をまわるアジア・ツアーの一環とのことで、用意された3つのプログラムのうち、マーラー交響曲第9番が演奏される日を選んだ。会場はサントリーホール

ヤンソンスは2003年から同響の首席指揮者(Chefdirigent)を務めており、昨年5月には任期を2018年から2021年まで延長することが発表された。

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ヤンソンスバイエルン放送響による演奏を聴くのは、2014年の来日公演以来二度目。両者の芸術性への基本的な見方は変わらなかったが、曲を変えての完成度の高い演奏は、別様に彼らの芸術を味わわせるものだった。

音楽が始まってすぐ、質の高い演奏であろうことが窺われた。技術はその高さを感じさせない節度を備えており、音色も吟味された肌理をしている。

バイエルン放送響はユニークなオーケストラだ。その芸術的特徴は、極めて高い技術に裏打ちされた表現力にあると思う。それはこの日、舞台の下手と上手に分かれ、文字通りオーケストラの両翼を担ったヴァイオリンとコントラバスに顕著に現れていた。ヴァイオリンは高音になると、一体的な線と音色はしばしば揺らめき、その清冽で硬質な鋭さは、にわかに生々しさを帯びてくる。あくまでも明晰に調和した音楽は乱調を孕み、アポロの表情はディオニュソスのものとも見えてくる。翻って、乱調は調和をあからさまにしているようだった。一方コントラバスは、むらなく緩やかに引き締まって音楽にバランスを与えつつ、温かく柔らかい響きを醸して幽玄である。高音ほどではないが、その線と音色は時々揺らめいていた。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)も極めて高い技術をもつオーケストラだが、その在り方はバイエルン放送響と異なる。ベルリン・フィルは合奏の精度を高めることによって、音色を透明にし、音楽に室内楽的な統一感を与える。その際、技術の高さは比較的意識されるかもしれない)

「鋭い線の生々しさ」と「柔らかい響きの幽玄」が対照を成すバイエルン放送響の音楽は、〈形而上的な薔薇〉と呼ぶに相応しい。暴力性とかぐわしさの同居が薔薇のイメージによく合うからだ。そこに指揮者が出会い、芸術性が注ぎこまれるとき、その〈薔薇〉は赤く染め上げられ、香りをたゆたわせるだろう。絶対的に離れていながら、ひとつになって美となるような一輪の〈薔薇〉。事前に聴いた、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)=バイエルン放送響によるマーラー交響曲第9番(2011年録音のディスク)が〈蕾の薔薇〉であったのに対し、ヤンソンスバイエルン放送響が聴かせたのは〈綻ぶ薔薇〉だった。マーラーの「歌」は存分に歌われ、鋭い線はいよいよ清冽に生々しく、幽玄の香りはかすかに聴こえるばかりだ。両翼の内側で、多様な管弦楽の対照が、様々な音色や肌理、ヴォリュームをともなって、〈薔薇〉の花弁を幾重にも重ねる。

彼らの芸術は、第4楽章において官能美として極まったようだ。弦の線と音色の揺らめきは、倒錯的なまでにエロティックで、〈朽ちゆく薔薇〉を予感させた。

微妙な変化をあくまでも明晰に表現するヤンソンスバイエルン放送響の演奏は、アポロ的なマーラー解釈のひとつの到達点だろう。

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コンサートでは指揮者とオーケストラが舞台で音楽を演奏し、聴衆は客席でそれを聴く。両者には明確な線引きがある。しかしこの日ホールを包んだ聴衆の静寂は、美の前では芸術家と鑑賞者の別を無効にするような次元があることを示唆していた。繊細な弱音は静けさに縁取られて際立ち、静寂もまた「演奏の一部」として音楽をかたちづくっているように思われたのだ。バイエルン放送響の明晰な音は、静かに無音から立ち現われ、無音へと消えていった。鑑賞者にとって音楽は第一に(受動的に)聴くものだが、同時に芸術家同様、それを通じて美を(能動的に)眼差すものでもある。そして鑑賞者は「美を眼差す者」という意味において「芸術家」たりうるのだろう。私たちは「演奏」しなければ、マーラー交響曲第9番を──ひいては〈音楽〉を──「聴く」ことはできない。ヤンソンスバイエルン放送響の美しい演奏に誘われ、そのようなことも思った。