op.1

ballet/orchesrta/criticism

川瀬賢太郎指揮、神奈川フィルによる、サロネン/マーラー・プロを聴く

4月8日、神奈川フィルハーモニー管弦楽団(Kanagawa Philharmonic Orchestra)の定期演奏会を聴いた(横浜みなとみらいホール)。指揮は、常任指揮者の川瀬賢太郎。2017/2018シーズンの開幕公演で、両者は、4年目のシーズンを迎える。

このコンサートに足を運んだのは、先日聴いた、川瀬=神奈川フィルの《魔笛》が素晴らしかったからだ(3月18日、神奈川県民ホール*1。ロマン派の大曲でも、同様に高い芸術性を示すのか。そう思っていたところに、この公演があることを知った。独創的なモーツァルトを聴かせた川瀬が、マーラーとどう向き合うのか、という関心もあった。

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コンサート前半に演奏されたのは、エサ=ペッカ・サロネンEsa-Pekka Salonen)作曲、フォーリン・ボディーズ(Foreign Bodies)。サロネンフィンランド出身で、1958年生まれ。世界的な指揮者でもある。彼の指揮には接したことがあるが(フィルハーモニア管弦楽団、2015年、東京)、曲は初めてだ。その演奏はモダンで、極めて洗練されていただけに、作品の方も期待した。

2001年の作(今回演奏されたのは2004年改訂版)。規模の大きいオーケストラを要し、プログラムによると、20分程度の長さをもつ。全体は3つの部分(Part Ⅰ. Body Language, Part Ⅱ. Language, Part Ⅲ. Dance)に分かれているが、切れ目なく演奏される。ティンパニのほか、銅鑼、グロッケンシュピールチェレスタなど、多くの打楽器が使用される。

曲が始まって間もなく、演奏の芸術性は必ずしも高くないことが窺われた。音楽の、特に線が生硬で、音が奏者の体を経由せず、指や腕、口からそのまま、ホールに投げ出されているようだった。つまり、表現として地に足が着いておらず、作品の輪郭を芸術的に結んでいないように感じられた。大きな音が連続する箇所では、その迫力に圧倒されたが、空騒ぎに聴こえてしまった。

曲は様々なリズムが絡み合う。また、ミニマルに聴こえる部分もあった。ある種の野蛮を感じさせながらも、やはり洗練された印象を与え、好感を持った。ちなみにサロネンは、来月、指揮者として来日し、フィルハーモニア管とともにコンサートを行う(ただし、自作はプログラムに含まれていない)。

 

後半は、マーラー交響曲第1番が取り上げられた。

演奏の様子は、Foreign Bodiesと基本的には変わらない。《魔笛》で聴いたように、音は硬質なのだが、古典的なかたちはしておらず、際立った芸術性も見当たらない。最初、音楽の貧弱なことに、少し驚かされた。また、マーラー特有の「歌」は呼吸が浅く、歌い上げることができない。しかし、大きな音はとても威勢がいい。分裂的なマーラーだ。むろん、芸術的なものではない。いわば、表現以前の表層的な、気分をめぐる分裂だろう。

なお、第1、第2楽章、第3、4楽章はほとんど続けて演奏され、その間にやや長い沈黙が流れた。

 

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あくまで二つの公演を聴いての感想だが、神奈川フィルはいま、「モーツァルトマーラーの間」にいると思う。古典的な音楽を、上品に奏でることはできるかもしれないが、深い官能を抱える、巨大な作品となると手に余るからだ。

いつか、美しいマーラーを生む、matureな「肉体」を聴きたい。