op.1

ballet/orchesrta/criticism

ハイティンク指揮、バイエルン放送響のマーラーを聴く(ディスク短評)

11月某日、ベルナルト・ハイティンク(Bernard Haitink)指揮、バイエルン放送交響楽団(Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks)による、マーラー作曲、交響曲第9番をディスクで聴いた。2011年のライヴ録音。

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実はこれまで、ハイティンクの指揮に感心したことがない。例えばロンドン交響楽団London Symphony Orchestra)とのマーラー交響曲第4番は、指揮者の芸術性だけが抜け落ちた演奏だと思ったし、ディスクで聴いたロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(Royal Concertgebouw Orchestra)とのマーラー交響曲第9番は、微温的に感じられた。今回このディスクを手にとったのは、マリス・ヤンソンス(Mariss Jansons)指揮による、バイエルン放送響の来日公演に備えてのことだった。大きな期待を抱かずに聴き始めたが、間もなく端的な芸術性が窺われた。  

オーケストラの線は細く(時折とても細い)、音色は澄んでいるが温か。極めて高い技術を備える同響らしく、音の構築には余裕を感じさせる。

 テンポは若干速いようだ。音はやや短く切られ、この曲が内包する「歌」がナイーヴなほど控えめに、朴訥に歌い継がれてゆく。その「いびつな歌」はしかし、不自然なところがないばかりか伸びやかですらある。わずかな吃りが籠め滲ませる「歌」の豊かさ。これがいままで美しいと感じることがなかったハイティンクの造形感覚が意図していたものなのだろうか。

抑制された歌からは、音色の純粋への志向が感じられる。その配慮が「歌」を遠慮深いものにしているようだ。また、線や音色の細やかなニュアンスは、志向の過剰によってもたらされたと思われる。

ハイティンクの眼差しは、音楽を通じて〈内〉へと向けられており、反対に〈外〉へと開こうとするヤンソンスの指揮とは対照的だ。そして、それを実現するのはバイエルン放送響の芸術性に他ならない。〈内〉(と〈外〉)に届く技術をもつこのオーケストラだからこそ可能となった微妙なマーラーだろう。