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シュツットガルト・バレエ《白鳥の湖》を観る──ジークフリートとオデット、二つの「自画像」──

11月10日、シュツットガルト・バレエ来日公演《白鳥の湖》を観た。振付けは、ジョン・クランコ(古典版に基づく)。全4幕。1963年11月14日初演(55年前の今日だ)*1。会場は、東京文化会館

シュツットガルト・バレエは、3日の《オネーギン》に続いての鑑賞となる。

関心に即して、感想を述べていこう。

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オデット/オディールを踊ったのは、プリンシパル・ダンサー*2の、エリサ・バデネス(Elisa Badenes)*3。やや小柄なバレリーナだ。

特に、第二幕のオデットがよかった。

肉体の造形性を強調せず、しかし、平板に陥らず、緻密に踊る*4

同幕のソロでは、涙がこぼれそうになった。

わずかに、傾(かし)げた首から、白鳥にされてしまった哀しみが漏れ、確(しか)と、天を見すえた、穏やかな表情は、けなげだった。

その最後の部分、オデットが舞台を、あちらからこちらへ、斜めに横切ると、音楽は、極度にテンポを落とす。空間が、一挙に抽象化して、オデットの内面が、スローモーションの肉体造形に、結実してくる。一転、音楽が速くなって、現実に引き戻されるまでの、出来事だった*5

バデネスのオデット解釈は、24羽の白鳥の踊り(コール・ド・バレエ)と、地続きだった。

単に正確に踊るのを、逸脱した、「精確な」群舞(バレリーナの、背の高さや、ふとももの太さも、程よく、高く、細く、統一的であった)。その差は、紙一重だが、芸術的・美的には、とても大きい。私たちは、いま、オデットの物語を見ている。しかし、その後ろにいる、沢山の白鳥たちは、まさに、第二、第三の、オデットなのだ。翻って、「私たち」なのだ。

《オネーギン》や《ロミオとジュリエット》からは、窺い知ることのできない、バレエ団の実力、底力を、思い知った。

 

ジークフリート王子を踊ったのは、アドナイ・ソアレス・ダ・シルヴァ(Adhonay Soares da Silva)。2015年に、シュツットガルト・バレエに入団し、今年、プリンシパルに昇進した*6

上半身の姿勢が、やや反り気味によく、どんなに踊っても、動じない。一方、太ももは、ヴォリュームがあり、柔らか。このバランスが、彼の踊りを、芸術的に支えていたように思う。

 

クランコ版《白鳥の湖》は、悲劇だ。二人は、地上で結ばれるのでも、天上で結ばれるのでもない*7。悪は滅びず、ジークフリートは、ロットバルトの罠に嵌って、溺死する。

その直前、王子とオデットは、弦楽合奏の、静謐な調べに身をまかせ、パ・ド・ドゥを踊る(チャイコフスキーの《白鳥の湖》にはない音楽だった)。ジークフリートの、幻想を見ているようだった。

彼は、オデットの美しさ、オデットへの愛に、溺れてしまったのかもしれない。第三幕、ジークフリートがオディールに、愛を誓ったとき、その端緒は開かれたと思う。愛は、美は、一線を超えれば、死に至る。いずれも、死を、裏面(りめん)にもつ、体験だからだ。しかし、ジークフリートが、オディールを、オデットだと思ったのも、無理はない。バデネスは、オデットのように、オディールを踊ったのだから。むしろ、そこから、(芸術的・)美的に判断したとすれば、彼は、誠実だった、ともいえる*8(先に鑑賞した《オネーギン》で、オネーギンが、タチヤーナの愛を拒絶したのとは反対に。タチヤーナを踊った、ディアナ・ヴィシィニョーワは、田舎時代のタチヤーナも、「グレーミン公爵夫人」のように踊っていた)*9

客席で観ていた私たちにとって、これは、他人事(ひとごと)ではない。芸術において、「死」への誘惑が強くとも、美にとどまり、愛しつづけること。バレエという、芸術の危険を、クランコは、《白鳥の湖》という、バレエの代名詞で、オデット=オディールを、美の化身とすることで、示してみせた(一方、白鳥のまま残された、オデットは、ジークフリートと、愛に溺れることを許されず、「自分」を取り戻すため、「完全な愛」を求めて、生きつづけねばならないだろう。ジークフリートは、オデットという「幻想」を信じることができたからこそ、一線を超えてしまった。オデットも、ジークフリートという「幻想」を信じることができたら、人間に戻れたにちがいない)。

 

演奏は、《オネーギン》同様、ジェームズ・タグル(シュツットガルトバレエ音楽監督)指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

金管のミスが目立ったり、「ただ演奏しているだけ」のことがあったりと、《オネーギン》より、質は低かった。

装置・衣裳は、ユルゲン・ローゼ。

配役表は、以下となる。

https://www.nbs.or.jp/publish/news/2018/11/1110.html

今回の来日公演では、主役を踊る機会のなかった、プリンシパル・ダンサーの、ヒョ・ジョ・カンが、町娘を、同じく、ミリアム・カセロヴァが、町娘、二羽の白鳥を踊った。

*1:この日、シュツットガルト・バレエは、福岡で、《白鳥の湖》を上演する。http://www.kbc.co.jp/event/detail.html?id=190

*2:シュツットガルト・バレエは、プリンシパル・ダンサー、ソリスト、準ソリスト(Demi Soloist)、コール・ド・バレエの四階級制。https://www.stuttgart-ballet.de/company/dancers/

*3:https://www.stuttgart-ballet.de/company/dancers/elisa-badenes/

*4:彼女の踊りには、何度か接してきたが、《オネーギン》オリガ、《じゃじゃ馬馴らし》キャタリーナ(パ・ド・ドゥ)という、ドレスを着た役では、芸術性を見出すことができなかった(プログラムによると、これらの演目は、《ロミオとジュリエット》とともに、ジョン・クランコ(シュツットガルト・バレエ創設者)の振付けた、「3つの伝説的作品」という)。今後の体験に俟ちたい。

*5:この音楽解釈は、この日に限ったものなのだろうか。それとも、アマトリアイン、オサチェンコが踊った日にも、このように演奏されたのだろうか。

*6:https://www.stuttgart-ballet.de/company/dancers/adhonay-soares-da-silva/

*7:公演プログラムによると、「クランコはこの最後の場面で、二人が一緒に死ぬことも、ジークフリートとオデットが幸せに結ばれるヴァリエーションのどちらをも選択しなかった最初の振付家である」。そして、「彼の後には、ルドルフ・ヌレエフおよびエリック・ブルーンが同じ選択をした」。

*8:公演プログラムによると、クランコは、こう述べたという。「ジークフリートは誓いを破り、内面の実体と見せかけの外見を無意識に取り違えた、資格のない男だということが露呈している。打ち負かされるべき悲劇のヒーローなのである」。確かに、物語上、あるいは、演出上、ジークフリートが愛を誓った「内面の実体」は、オディールであり、「見せかけの外見」は、オデットだった。しかし、踊りは、逆に、「内面の実体」はオデットで、「見せかけの外見」はオディールであった。バデネスの踊りは、両者を、同一人物として、扱っていたのだ。クランコは、「自由に、自分の独自の方法で、偉大な振付家(プティパ)の方向性を見失うことなく」バレエをつくった。この、内面/外見のねじれは、ちょうど、「クランコの方法」と、「プティパの方向性」の、ベクトルの違いを、指し示していると思われる(だから、次に示す、「クランコの意図」は、彼が考えていたものと、必ずしも、一致しないかもしれない)。

*9:評は以下。シュツットガルト・バレエ《オネーギン》を観る - op.1