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op.1

ballet/orchestra/Mozart/Mahler/art

マイケル・ティルソン・トーマス指揮、サンフランシスコ交響楽団の来日公演を聴く

11月21日、マイケル・ティルソン・トーマス(Michael Tilson Thomas)指揮、サンフランシスコ交響楽団(San Francisco Symphony)の来日公演に足を運んだ。会場はサントリーホール

4年ぶりの来日公演で、韓国(2公演)、台湾(2公演)、中国(3公演)、日本(3公演)をまわるアジア・ツアーの一環だという。指揮のティルソン・トーマスは、1995年より同響の音楽監督(Music Director)を務めている。 

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最初に演奏されたのはブライト・シェン(Bright Sheng)の「紅楼夢Dream of the Red Chamber)」序曲。サンフランシスコ響の委嘱作品(2016年9月初演)で、今回が日本初演だという(ちなみにこれは、サンフランシスコ歌劇場(San Francisco Opera)で同じ月に初演された彼のオペラ《紅楼夢》からの引用を含む演奏会用序曲とのこと)。中国風の曲調をしており、いかにもクラシック音楽というより、ドラマや映画の音楽を連想させた。

 

次に演奏されたのはショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番(ピアノとトランペット、弦楽合奏のための協奏曲)。ピアノはユジャ・ワン(Yuja Wang)、トランペットをサンフランシスコ響首席奏者のマーク・イノウエ(Mark Inouye)が担当した。

ショスタコーヴィチは普段ほとんど聴かない作曲家の一人で、事前に聴いたディスク(ウラディーミル・ユロフスキ(Vladimir Jurowski)指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(London Philharmonic Orchestra)、マルティン・ヘルムヒェン(Martin Helmchen)独奏による、ピアノ協奏曲第1番および第2番)でもあまり魅力を感じなかった。演奏会では興味深い点はあったものの(ピアノとオーケストラ、トランペットがつくる音楽の立体性とその質感など)、やはり関心を抱くことはなかった。

そのため、演奏の美について書くことはできない。しかし、その芸術性についてはいくらか述べることができる。簡単に列挙しておこう。

ユジャ・ワンのピアノは、比較的柔らかいタッチで響きも適当。また、強い音でも激するところがなかった。完成度の高い演奏だったと思う。

マーク・イノウエのトランペットは評価することができない。線は不明瞭なところがあり、音色は濁っていたのだ。つまり、それらは一貫した芸術性を構成せず、美しくないと感じられた。

ティルソン・トーマスとサンフランシスコ響の演奏はモダンと言え、時折、詩情を漂わせていた。

アンコールとしてユーマンスの「ふたりでお茶を」がトランペットとピアノにより演奏された。二人が退場し客席が明るくなっても拍手は止まず、ユジャ・ワンが「4羽の白鳥」(チャイコフスキー)を弾いた。技巧的な曲ながら、その音楽は技術の高さを意識させることがない。協奏曲で聴こえた美質が凝縮した演奏で、一つの作品として彼女の芸術を味わうことができた。

 

* * *

 

後半はマーラー交響曲第1番が演奏された。この曲に至って、オーケストラと指揮者の芸術性に輪郭が結ばれるようになる。

サンフランシスコ響は細く硬質な線をしていて明瞭。音色は肌理が細かく、明るく軽いが、そうなりすぎない。また技術に秀でているわけではないが、充分な力量を備えている。このようなオーケストラはありそうでなかなかないだろう。

ティルソン・トーマスのマーラー解釈は軽やかなものだった。2001年に同響と録音したディスク同様、鼻歌でも歌うかのように指揮をする。そしてそれは確かに「マーラー」を感じさせる演奏だった。打楽器(特にシンバル)を中心に響きをたっぷりと含ませ、バランスよく、しなやかに歌う。第4楽章(終楽章)ではテンポをやや落とし、マーラーの歌を色濃く滲ませる。サンフランシスコ響の硬質な音は、音楽の軽やかさに存在感を与えていたようだ。大音量もあったが、品を落とすことなく華やか、爽やかだった。

(去年聴いた、グスターヴォ・ドゥダメル(Gustavo Dudamel)指揮、ロサンゼルス・フィルハーモニック(Los Angeles Philharmonic)のマーラー交響曲第6番「悲劇的」)も「明るい」演奏だったが、そこにはある種の無邪気さが認められ、「軽やか」というよりも「軽い」音楽だった)

ティルソン・トーマス=サンフランシスコ響の軽やかなマーラーは、 その親しみやすさから「ポップ」と呼ぶことができるだろう。一方、モダンな解釈のなかに古典性を感じさせる演奏は、積極的に「クラシック音楽」と思わせるものだった。そしてそれは、「重い」対象を「軽やか」に扱うことによって、表層に〈深み〉を生じさせる芸術だったに違いない(例えばアメリカの美術家、アンディ・ウォーホルAndy Warhol)が《毛沢東》(1973年、アンディ・ウォーホル美術館)において示したような)。身近でありながら〈深み〉を湛える音楽。彼らのマーラーは、「ポップ」と〈クラシカル〉とが分かちがたく結びついたユニークな姿をしていた。