文芸時評「文体とは何か」(磯﨑憲一郎、朝日新聞)
5月30日の、朝日新聞(朝刊)より。
木曜の朝日新聞「文芸時評」は、「文体とは何か」と題して、純文学とエンタメの違いを切り口にしていた(磯﨑憲一郎)。文体とは、「ただひたすらに、目の前の一文の、語の選択と配置という問題なのだ。そしてその選択の基準は、… 正しく書き手の身体性に委ねられている」。批評も同じだと思う。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
批評にも、あえて言えば、「純批評」と「エンタメ」がある。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
作品を鑑賞し、感じた美を表現する「語の選択と配置」は、評者の「身体性に委ねられている」。芸術鑑賞は、すぐれて身体的な行為で、その記憶との緊張関係から、語は配列される。その「基準」には、作品への眼差しと、同じ「眼」が求められるだろう。批評を批評する際、文体は、一つの視点となる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
芸術作品同様、批評にも、合う合わないがある。趣味、あるいは、それらが根差す身体性に即して言えば、「体の相性」だ。しかし、同じ意見でも、合わない評がある一方、違っていても、尊重できる評があるのは、文体の身体性が孕む、ある普遍性を信じているからだ。それは、対話の基盤ともなりうる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
振り返れば、私のバレエへの関心も、「肉の選択と配置という問題」で、広い意味で、文体と言えるかもしれない。「意表を突くストーリー展開でも、登場人物の人生観を端的に言い表す台詞でもなく」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
クラシック音楽やバレエで、「語の選択と配置」は、作曲家や振付家によって、予め決められているが、それらはいわば、暗号のようなものだ。演奏家やダンサーが、美しく解読、上演してはじめて、秘密は現れる。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
芸術で、鍵(解釈)は、コピーした瞬間、偽造となる、と言えるかもしれない。それくらい人間は、精妙につくられているし、逆に、どんなに真似ようとしても、芸術的に窮まれば、自分らしさが出てしまう。古典性の高いバレエ芸術は、その偏差(文体)が、比較的純粋に出ると思う。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日
その純粋性は、肉体そのものをメディア(媒体)としている。バレエが「ヌード芸術」たる所以だ。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年6月6日