「インスタグラム時代の「モナ・リザ」」(ニューヨーク・タイムズ)
5月2日のNYT(国際版)は「インスタグラム時代の「モナ・リザ」」。ある裕福なアート・コレクターは、現代作品を買う時、電子的に複製されたイメージを何度も見るから、実物を何時間もかけて見る必要がない。「有名作家の、すぐそれと分かる特徴がコレクターを安心させる一方、→
— unamateur (@amachan_taste) 2018年5月6日
→他の作品は、複製によって、その芸術的価値が低く見做されかねない」。その最たる例が「モナ・リザ」なのだという。「そのような取引が繰り返されることによって、作品の経済的価値は上昇する」。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年5月6日
面白い体験をしたことがある。2014年のウォーホル展。そこには「注文肖像画」があり、一枚2.5万ドルとのことだった。それらが、一様に完成度が低かったのだ。「ウォーホル印」はあるが、瑕疵は図録からは分かりづらい。消費性を突き詰めた芸術を生み出しながら、それに舌を出す彼の批評精神。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年5月6日
長谷川祐子は次のように言う。「いったん情報化されてしまった身体は、そんなにやすやすと《体験》によって強く書き込まれたりすることはない。それはむしろ、すでに書き込まれていることの追認作業なのだ」『キュレーション』。複製に限らない。実物も度が過ぎれば、《私》を呑み込み、情報化する。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年5月6日
長谷川は続ける。「書き込まれないためにあえて、無知・イノセント…を選ぶ」。美的判断を、情報に規定されたくない。では、そうして生まれた批評は、研究やジャーナリズムと、どう付き合っていくのか。その戦術は、「知的、または存在論的検証にさらされるべき」なのだろう。
— unamateur (@amachan_taste) 2018年5月6日