op.1

ballet/orchesrta/criticism

レナード・スラットキン指揮、デトロイト響の来日公演を聴く

7月19日、デトロイト交響楽団(Detroit Symphony Orchestra)のコンサートに足を運んだ。指揮は、音楽監督のレナード・スラットキン(Leonard Slatkin/2008-)。日本、中国をめぐるアジア・ツアーの一環で、当時音楽監督だった、ネーメ・ヤルヴィとの初来日以来、19年ぶりの来日公演だという(楽団のウェブサイトによると、2001年のヨーロッパ・ツアーを最後に、海外公演を行っていなかったという)。ヴァイオリニストの諏訪内晶子が芸術監督を務める「第5回国際音楽祭NIPPON」の主催。会場は、東京オペラシティ コンサートホールだった。

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初めに演奏されたのは、武満徹の《遠い呼び声の彼方へ!(Far calls, coming, far!)》(1980年)。プログラムの解説によれば、題名は「ジェームス・ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』から取られたもの」だという。ヴァイオリン独奏を伴う、オーケストラ作品で、諏訪内が弾いた。

残念ながら、オーケストラ、独奏とも、完成度は高くなかったように思う。音楽に美を感じることはなかった。

 

続けて演奏されたのは、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35(1947年)。プログラムの解説によると、「この《ヴァイオリン協奏曲》は、「ハリウッド協奏曲」のニックネームで知られるように、彼がハリウッドで関わった4つの映画、すなわち、『砂漠の朝』『革命児ファレス』『風雲児アドヴァーズ』『放浪の王子』から素材が取られている」という。

始めからヴァイオリン独奏(諏訪内)が入るが、この時点で端的によいと感じた。ロマンティックな旋律を、濃厚に歌う。音色も濃い(使用楽器は、1714年製の、ストラディヴァリウス「ドルフィン」)。だが、造形は崩さない。オーケストラもよいことが、端的な演奏からすぐに窺えた。前曲とのこの差は、一体何なのだろうとの思いが頭をよぎりつつ、音楽に引きこまれる。

デトロイト響の音は、重厚で、音色は落ち着いて硬質。響きは引き締まっている。独特だ。スラットキンはそれを、飽くまで明晰に扱う。事前に聴いた録音では、独奏にスポットライトが当たり、オーケストラは、いかにも伴奏的だったのだが(武満作品もそうだった)、実演では、一体化して「協奏曲」になっている。しかし白眉は、諏訪内のヴァイオリンにあった。彼女には、「音が唸る」ことの意味を、まざまざと教えられた。コルンゴルトの歌が窮まると、音が半ば自律して──つまり、奏者の手をわずかに離れて──それ自体、生々しく鳴りはじめるのだ。音楽が、一線を越えた瞬間だった。

 

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休憩中、少し不安になっていた。後半のチャイコフスキーは、どちらのような演奏になるのだろう。以前にも、同様の気持ちになったことがある。昨年聴いた、ウィーン・フィル川崎公演。指揮は、ズービン・メータだった。前半に演奏された《海》は美しかったのだが、《ドン・ジョヴァンニ》序曲の完成度が低かった。残念ながら、後半の《ザ・グレイト》は退屈な方の演奏だった…。(考えてみれば、一流の芸術家でも、私たちと同じ人間で、何らかの理由から、満足な音楽とならない場合もあるだろう。そのような演奏が続けば、足が遠のくのは仕方のないことではあるけれども…。)

 

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後半に演奏されたのは、チャイコフスキー作曲、交響曲第4番ヘ短調作品36(1878年初演)。うれしいことに、心配は、曲が始まって間もなく、消えることとなった。更には、ここに至って、スラットキン=デトロイト響の芸術的本領が発揮されたようである。

重厚な音は、より重厚さを増し、音色の硬質は、いよいよ硬い。大から小、小から大の音量変化も実に滑らかで、弱音は、硬質を残しつつも、繊細に存在している。その上、チャイコフスキーの歌が、雄渾に漲っている(弦の音色と強靭は、イスラエル・フィルを思わせた)。スラットキンの指揮は、相変わらず明晰だが、ここでは少し事情が異なるようだ。明晰な音楽は、そうなろうとするあまり、〈凄味〉を獲得してしまった。極めるの度を越して、異次元に突入しかけたようなのだ。そこでは、デトロイト響の、暗く重い音が、チャイコフスキーの音楽を、より凄いものにしている。かつて聴いた、 マイケル・ティルソン・トーマス=サンフランシスコ響のマーラーが、「「重い」対象を「軽やか」に扱うことによって、表層に〈深み〉を生じさせ」たのとは、対照的な芸術だ(拙稿「マイケル・ティルソン・トーマス指揮、サンフランシスコ交響楽団の来日公演を聴く」)。膂力(りょりょく)がない分、怖く、狂気すら感じさせる。明晰を駆動する、その「意図」は、決して生やさしいものではなかった。

なお、第2、第3楽章は、続けて演奏された。

 

彼らの芸術は、例えば、米国のオーケストラでいえば、ティルソン・トーマス=サンフランシスコ響(2016年、東京)のほかに、ムーティ=シカゴ響(2016年、東京)と並べても、遜色がない(ただし、ここに挙げた2つのコンサートは、一部のソリストを除き、完成度も一貫して高かった)。つまり、指揮者とオーケストラのユニークな芸術性が融合(フュージョン)して、一つになった〈クラシック音楽〉、オーケストラ芸術の最高峰だった。

ヤニック・ネゼ=セガンフィラデルフィア管(2014年、東京)も素晴らしかったのだが、彼に、「曲(とオーケストラ)の芸術性を引き出す以上のもの」を、積極的に見出すことができなかったため、ここに含めなかった。ところで、先日、イングリッシュ・ナショナル・バレエの《コッペリア》を鑑賞した。演奏は、冨田実里指揮による、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。これが美しかった。オーケストラからは特別な芸術性は感じなかったものの、その分、指揮者の持ち味が際立つドリーブだった。ネゼ=セガン=フィラデルフィア管とは逆のパターンである。相性が肝腎だろうが、「凡庸」なオーケストラほど、指揮者の芸術性が前面に出る傾向があるのかもしれない)。

 

最後に、アンコールがあり、菅野よう子の《花は咲く》、そして、フェリックス・スラットキンの《悪魔の夢》(私たちも手拍子で参加)が演奏された。