op.1

ballet/orchestra/criticism

バイエルン国立歌劇場《魔笛》を聴く

            私たちは愛によろこびを感じようとし、

            私たちは愛によってだけ生きる。──パパゲーノ、パミーナ

 

9月27日、バイエルン国立歌劇場(Bayerische Staatsoper)来日公演《魔笛》を鑑賞した。アウグスト・エヴァーディング(August Everding)版(1978年、2004年改訂)。指揮は、アッシャー・フィッシュ(Asher Fisch)。会場は東京文化会館で、4回公演の3日目を聴いた。この来日公演では、他に《タンホイザー》が上演され、こちらはバイエルン国立歌劇場・音楽総監督のキリル・ぺトレンコ(Kirill Petrenko/2013年就任)が指揮した(3回公演で、会場はNHKホール。ちなみに彼は、2019年、サイモン・ラトルの後任として、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者・芸術監督に就任することが決まっている)。2011年以来6年ぶり、7回目の来日公演だという(当時の音楽総監督はケント・ナガノ(Kent Nagano/2006-2013年在任))。台北(2公演)、ソウル(1公演)、東京(9公演)をまわるアジア・ツアーの一環で、オペラは東京のみでの上演。コンサートでは、マーラー交響曲第5番が共通して演奏されたようだ(コンサートはすべて、ぺトレンコ指揮)。

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アッシャー・フィッシュは、イェルサレム生まれの指揮者で、2014年より、西オーストラリア交響楽団(West Australian Symphony Orchestra/パース)の首席指揮者・芸術顧問を務めている。また、ピアニストとして、リスト編曲によるワーグナー作品集をリリースしている(2012年)。同楽団のホームページは、フィッシュの、バイエルン国立歌劇場との長年にわたる関係を取り立てて書いていた(2009年以来、毎年客演している)。今年はこれまで《ファルスタッフ》《仮面舞踏会》《魔笛》《運命の力》を振っており、来年は《仮面舞踏会》《椿姫》の指揮が予定されている。遡れば、2015年、2012年、2011年、2009年にも、《魔笛》を任されている(バイエルン国立歌劇場は、2004年以降、毎年、この作品を上演している)。プログラムによれば、トリノ王立歌劇場でも、2016/2017年シーズン、《魔笛》を振ったそうだ。

 

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序曲。ここで、これから3時間の体験の質が、ほぼ決まると思っていた。聴きに行くことが決まってから、不安に思っていることがあった。来日公演の中心は《タンホイザー》で、《魔笛》はクオリティが落ちるのではないか。また、指揮のフィッシュはインタビューで、普段、あまりリハーサルに時間をかけないことを示唆していたが、作品の完成度に影響するのではないか…。しかし、第一級の芸術は、すぐに端的に、その完成度の高さを、事もなげにあらわにした。チューニングで、オーボエやヴァイオリンの音が、驚くほどクリアだったのが、前触れだと気づく。

バイエルン国立管弦楽団(Bayerisches Staatsorchester)の音色は、とても澄んでいる。金属質というより、木のぬくもりに似て、表面は均されている。線は比較的細い。音量は控え目で、表現にも抑制がきいている。古典的というより、モダンなオーケストラだ(その芸術性は、過去の音楽監督、総監督でいえば、サヴァリッシュ(1971-1992年在任)やメータ(1998-2006年在任)より、ナガノのイメージに近い)。総じて、演奏は、耳にダイレクトに伝えるものというより、耳に注意を促すものであった(ぺトレンコは記者会見で、日本の食事は美味しいといっていたが、和食に通じるものがあるかもしれない)。

このオーケストラで聴くと、モーツァルトの大胆な主張はいつも穏やかで、密やかな囁きは誤解の余地なく、しんと響いた。でも、その雰囲気はどうだろう。清らかな音色はそのままに、行間を時間に滑らせて、ねっとり、誘惑の歌を歌っているではないか。慎ましい経(たていと)と、肉感的な緯(よこいと)によって編まれる《魔笛》は、不思議に、いままでたどったことのない路を通って、みぞおちの辺りに落ちていった。齟齬と言うには、あまりに流麗な齟齬に、平静を装いながら、耳を傾ける。

すべての瞬間を、写真にとっておきたい思いに駆られるほど、有り難い。しかし、モーツァルトの快楽、オペラの快楽に身をゆだねるとは、そういうことではないのだろう。言葉にならない言葉たちを尻目に、官能を美で洗うこと。もし、このモーツァルトについて、何か言うことができるとすれば、そうして生まれた言葉であるに違いない。

指揮者とオーケストラの芸術は、対極といえるほど異質なのに、モーツァルトの音楽は、その矛盾を抱えこんだまま、美しく存在していた。例によってしなやかに、古典の均整をまもりながら。

清らかな〈肉〉は、雑り気のないまま、すべての時間を、舐めるように歌う。しかし、モーツァルトが可能なのも、歌は、かたちにつつまれるからで、〈肉〉が皮膚を纏うとき、そこに、やさしい陰翳が生まれる。静謐は、きれい事では存在しない。でもそれが、かえって清らかな様子を輝かせるし、時間的、空間的な距離感を与えて、明るさの表面に、見えない肌理を生じさせて、奥行を演出したりもする。翻って陰翳は、奥で「太陽」と手を結んだのか、〈肉〉との絆を強めて、ひとつになって、息づいていた。

夜の女王とザラストロは、モーツァルトの音楽のなかで、分かちがたく抱き合っていた。善悪の別を、美が、魔法でもかけたように──《魔笛》の名にふさわしく──、溶かした。このオペラは最後、合唱によって「美と叡智には永遠の王冠が飾られる!」と歌われ幕となる(海老沢敏訳)。舞台上では、ザラストロが勝利し、夜の女王が滅ぶのとは裏腹に、モーツァルトの音楽は、二人の頭上に「永遠の王冠」を被せるのだ。彼の音楽は人を裁くことをしない。タミーノとパミーナのうしろ姿を見つめながら、美の尊さを、ひしひしと感じていた。 

 

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今回の来日公演で、バイエルン国立管が、客演指揮者と、高い芸術性──指揮者とオーケストラの芸術的融合──を実現できるオーケストラであることが分かった(フィッシュが、バイエルン国立歌劇場の常連であることを考慮する必要はあるかもしれない)。また、これで、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送響に続いて、ミュンヘンを本拠地とするオーケストラを、3団体聴いたことになる。それぞれにユニークな芸術性をもち、演奏の完成度も高かった。コンサート・オーケストラ、放送オーケストラ、オペラを専門とするオーケストラという、様態上の違いにも注目したい。ミュンヘンは、世界的な音楽都市なのだろう。 

フィッシュに関して、彼の指揮は、YouTubeの、西オーストラリア交響楽団のチャンネルから、首席指揮者就任披露公演を、一部だが、聴いたことがある(2014年3月8日/パース・コンサート・ホール)。プログラムは、《魔笛》序曲、ピアノ協奏曲第20番(モーツァルト、弾き振り)、《死と変容》、《ニュルンベルクのマイスタージンガー組曲。こちらの《魔笛》は、全くといってよい程、ルーベンス的であったし、《マイスタージンガー》第1幕への前奏曲組曲の最後に演奏される)など、ジュゼッペ・シノーポリ指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックの、1985年の録音(ドイツ・グラモフォン)を髣髴させた(このような演奏を聴くと、かつて、シノーポリが首席指揮者を務めた、シュターツカペレ・ドレスデンドレスデン国立歌劇場管弦楽団/Staatskapelle Dresden)と、相性がいいと思う。客演したことはあるようだ)。西オーストラリア響との関係が熟した折に、聴いてみたい。

 

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バイエルン国立歌劇場合唱団(Chor der Bayerischen Staatsoper/合唱監督:ゼーレン・エックホフ(Sören Eckhoff))も、技術のその先の、芸術を問題にしていた(一部PAが使用された)。

男声による合唱も、混声の合唱も、充分な声量で、緊密に連関しあいながら、抑制がきいて、そこから、柔らかい響きを醸し出す。ふと、歌劇場を支えるもう一つの柱、バレエが思い浮かんだ。ひとりひとり、バレリーナの芸術が合わさって、統一的な、半ば独立したオーラを、群舞は生むことがある。パリ・オペラ座のそれは、背後に理性を感じさせるものだったが、マリインスキー、さらに進んで、ボリショイは、周りに層を湛える芸術性をしていた。コール・ド・バレエ(corps de ballet)は、カンパニーの実力をはかる指標と考えられる。この合唱団は、オーケストラとともに、バイエルン国立歌劇場のオペラを支えていた。 

 

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歌手は、実力者を揃えたという印象だった。とび抜けて存在感を示した歌手はいなかったが、脇役に至るまで、隙がなく、その分、オーケストラや合唱とよくなじんで、音楽的に、一体感のある《魔笛》をつくりあげていた。特に、夜の女王(ブレンダ・ラエ/Brenda Rae/ソプラノ)とパミーナ(ハンナ=エリザベス・ミュラー/Hanna-Elisabeth Müller/ソプラノ)は、まれに、音色が、透明に高まって、オーケストラの明るさに接近していた(主役を務めたほとんどの歌手が、ここ2年ほどの間に、同じ役を、バイエルン国立歌劇場で歌っている。また、パパゲーナを歌ったエルザ・ベノワ(Elsa Benoit/ソプラノ)、第3の侍女を歌った、アンナ・ラプコフスカヤ(Anna Lapkovskaja/メゾ・ソプラノ)、モノスタトスのウルリッヒ・レス(Ulrich Reß/テノール)は、バイエルン国立歌劇場のアンサンブル・メンバー、ミュラーは、2016年まで、アンサンブル・メンバーだった。ザラストロを歌った、マッティ・サルミネン(Matti Salminen/バス)は、バイエルン国立歌劇場宮廷歌手の称号を与えられている)。男声では、パパゲーノを歌ったミヒャエル・ナジ(Michael Nagy/バリトン)の声に、滑らかさが認められたし、サルミネンは、どんなに低い声を出しても、“歌って”いた。一方、3人の童子は、テルツ少年合唱団(Tölzer Knabenchors)の団員が歌った(そのうち一人は、とても小柄だった)。まだ、男声とも、女声ともつかない、成熟しない、独特の明るさをもった歌声が、童子の、あわいにいる役柄と合っていた。

フィッシュの指揮は、歌手の声をかき消すことなく、音楽づくりをリードしていた。 

 

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演出のエヴァーディングは、1977年から82年にかけて、バイエルン国立歌劇場の総裁を務めた人物。プログラムによると、この劇場では他に《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を演出したらしい(劇場ホームページによると、記録の残る2004年10月以降、《魔笛》のみが上演されている)。

前述のように、私にとって、オペラ《魔笛》の演出は、音楽のうちに、そのエッセンスを含んでいた。オペラは一般に、舞台とセットで一つの作品と見做されており、物語の側面がある以上、劇場での上演において、舞台演出は避けることができない。また、作品の一体性という観点から、演出は、単に音楽を毀損しない以上の、積極的な役割を果たすことが期待されている。 

この《魔笛》は、私にとって、エヴァーディング演出の、というより、ユルゲン・ローゼ(Jürgen Rose)美術・衣裳の《魔笛》であった(ヘムルート・レーベルガー(Helmut Lehberger)改訂演出、ミヒャエル・バウアー(Michael Bauer)照明)。それは、鑑賞の多くを、音楽を聴くことに費やした、という事情に負うところが少なくないと思う。しかし、ローゼの美術と衣裳は、そのような演出観に、若干の変更をもたらすものであった。

バレエでは、ローゼが美術・衣裳を担当した作品を、いくつか観たことがある。《ロミオとジュリエット》(クランコ振付/1962年)、《オネーギン》(クランコ振付/1965年、1967年改訂)、《真夏の夜の夢》(ノイマイヤー振付/1977年)などだ(余談だが、《真夏》は、エヴァーディングに捧げられている。彼は1973年、ハンブルク国立劇場監督に就任するが、同年、ノイマイヤーを芸術監督・主任振付家として、ハンブルク・バレエに招いた)。いずれも、バレエと、芸術的に本質的な結びつきを示していたように思う。過度な「自己主張」は慎まれ、造形や色の選択などに趣味を感じさせた。そうやってできた装置や衣裳は、深みのある洗練を備え、いぶし銀の佇まいをみせる。バレエは肉体によって踊られるだけでなく、衣裳や美術によっても「踊られる」ことを教わった。それ自体、〈バレエ〉であった。 

オペラでは初めて観たが、やはり、ローゼの作品だった。そしてそこには、衣裳において、身分の表現は、ほとんど記号のような位置にまで後退している、ということがあった。例えばパパゲーノの身なり。彼はタミーノのように高貴な身分ではなく、衣裳は、鳥刺と分かるようにつくられてはいるが、表現の中心は、ふたりを、一人の人間として、平等に扱っていた。パパゲーノは、おかしなことばかり言ってるけれど、自分に誇りをもって生きている。そう感じさせるのだ。《真夏の夜の夢》には、貴族の結婚式で、芝居を披露する職人たちが登場するが、めかしこむのではなく、人柄のにじみ出る格好をしていて、いきいきと輝いていたのを思い出す。ローゼの美術と衣裳は、モーツァルトの音楽と共鳴して、ともに〈オペラ〉を奏でていた。

ローゼの作品は、バイエルン国立歌劇場で、オペラだけでなく、バレエ(バイエルン国立バレエ(Bayerisches Staatsballett))においても上演されている。列挙すれば、オペラは、《フィガロの結婚》《コシ・ファン・トゥッテ》(以上、ドルン演出)《ノルマ》《ドン・カルロ》《ウェルテル》(以上、演出も担当)など、バレエは、《ロミオとジュリエット》《オネーギン》《真夏の夜の夢》にくわえ、《じゃじゃ馬馴らし》(クランコ振付)《幻想──白鳥の湖のように》《椿姫》(以上、ノイマイヤー振付)などである。

 

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幕が開ける前、拍手は音楽が終わってから、という旨のアナウンスがあった。私たちは音楽をよく聴いた。劇場の暗闇に身を沈め、たっぷりとオペラに浸る。貴重な一夜となった。