op.1

ballet/orchestra/Mozart/Mahler/criticism

ズービン・メータ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演を聴く

 10月9日、ミューザ川崎シンフォニーホールで、ズービン・メータ(Zubin Mehta)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管楽団(Wiener Philharmoniker)の演奏会を聴いた。ウィーン・フィルによる実演は、ティーレマン(2013年)、エッシェンバッハ(2015年)と聴いてきたが、いずれも評価することができなかった(主に指揮者に原因があると考えている)。メータの演奏は接した限りで質が高く、また彼はウィーン・フィルと関係が深いとされる。期待して会場に足を運んだ。演奏順に感想を述べていこう。

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ドン・ジョヴァンニ」K.527~序曲(モーツァルト

コンサート・マスターはライナー・ホーネック(Rainer Honeck)だった。

音のバランスが悪い。音色もウィーン・フィル特有の硬質は認められるものの、コントラバスを中心に濁っている(ただしヴァイオリンは驚くほど滑らかだった)。演奏には積極的にそう呼びたくなるような解釈が見当たらない(メータの芸術的特徴である端正な古典的造形はおろか)。ある程度予想していたこととはいえやはり残念だった。

曲の終わりは聴き慣れないもので、オペラからフィナーレの部分が引用されていたようだ。

  

交響詩「海」─3つの交響的スケッチ─(ドビュッシー

 すぐに前曲とは質的に異なる演奏であることが分かった。ヴァイオリンの音色はウィーン・フィル特有の甘美をうっすらと纏って滑らか(これは前曲同様)、チェロやコントラバスもむらなく艶やかだった。技術は非の打ちどころがなく、音のバランスもいい。音色の均質とも相まって音楽には透明感がある。弱音の繊細は繊細であり続け、大きい音はどんなに大きくなっても分をわきまえている。すみずみにまで神経のゆきとどいた音楽。これだけでも充分に美しかったのだが先があった。本当の美はその先に現れた。

ダンで古典的ですらあった「海」は、ときおり線を綻ばせ、艶やかな音色を滲ませたのだ。明晰な造形からエロティックなものがとけてゆく。この演奏はメータの「海」であり、ウィーン・フィルの「海」、両者の芸術性が一体となった「海」だった。ドビュッシー交響詩「海」はメータ=ウィーン・フィルの古典的な解釈を得て、その美を露わにしたようである。

(指揮とオーケストラとの関係は今年1月に聴いたリッカルド・ムーティ指揮、シカゴ交響楽団の演奏と対照的だった。ともに古典的造形から滲むエロスが美の特徴だが、シカゴ響ではムーティの造形のすきまをぬって音色が滲み出ていた。シカゴ響はウィーン・フィル同様、音色は滑らかで艶やかだが、音の輪郭がやや不安定で、いわば音色そのものが指揮によって引き締められて音楽がかたちとなっているようだった。ムーティのドラマティックな古典的造形が音色に浸食されたとき音楽は最も美しくなった。

 

後半のシューベルトはどちらのような演奏になるのだろう。休憩中にぼんやりと抱いていた期待は早々に潰えることとなった。

 

交響曲第8番ハ長調D944「ザ・グレイト」(シューベルト

木管楽器の並びが独特だった。指揮台を取り囲むように下手から順にフルート、オーボエファゴットクラリネットが2人ずつ座っていた。

演奏はバランスが悪く、音色も濁っていた(ここではヴァイオリンも滑らかさを失っていた)。弱音は弱々しく、強い音は力んでいる。オーケストラの音が硬質なこともあり音楽としてかたちにはなっているのだが、そこに一貫した造形性は認められない。また技術は詰めが甘いと感じられた(それは芸術性を感じなかったことと密接に連関しているだろう。端的な技術は芸術性をともなってはじめて完成されるのではないだろうか)。これを「ウィーン・フィルシューベルト」ということは可能だ。しかしそれは骨董趣味だろう。

アンコールとしてドヴォルザークスラヴ舞曲集作品46から第8番が演奏された(内側に座ったピッコロが活躍する曲が選ばれたのかもしれない)。均質な音色、見事なバランス。皮肉にきこえた。

 

この1ヶ月後にはウィーン国立歌劇場(同管弦楽団ウィーン・フィルの母体)の来日公演が控えている。3人の指揮者がそれぞれ1演目ずつ振る予定だが、その中の一人、ムーティもまた、このオーケストラとは縁が深いとされる。完成度の高い演奏であることを願うばかりだ。