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スカラ座バレエ来日公演「ドン・キホーテ」を観る

9月22日、東京文化会館で開催されたスカラ座バレエ来日公演「ドン・キホーテ」の初日に足を運んだ。

キトリ/ドルネシアをシュツットガルト・バレエのエリサ・バデネス、バジルをスカラ座バレエのゲスト・アーティストでもあるミハイロフスキー劇場バレエのレオニード・サラファーノフが踊った。当初キトリに配役されていたポリーナ・セミオノワ(アメリカン・バレエ・シアタースカラ座バレエ・ゲスト・アーティスト)は妊娠のため降板している。

ダンサーを中心に感想を述べていこう。

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エリサ・バデネスElisa Badenes)。彼女は小柄でとても細いバレリーナだ。そしてその細さ、肉体の引き締まり方に特徴があった。単に肉体を引き締めるだけでなく、その下にある骨を少し浮き彫りにするまで引き締まっていたのだ。そのようにして肉体とは骨に支えられた古典的な存在であることが示唆される。

踊りは造形的な部分と流れるような部分とがあった。両者の関係にはむらがあり端的な造形感覚を示したとはいいがたいが、造形的な部分では端的に造形的であることが多かった。脚は高く上がり空間と有機的に連関する。脚を前に上げたときのそれは濃厚でエロティックですらあった。

彼女の踊りは昨年、シュツットガルト・バレエの来日公演で観ているが(「ドン・キホーテ」からパ・ド・ドゥ(振付:マキシミリアーノ・グエラ)を含む)、その芸術性を分からないでいた。バデネスの踊りを評価できてうれしく思っている。

 

レオニード・サラファーノフ(Leonid Sarafanov)。彼の踊りは今回も評価することができなかった。事前に鑑賞したディスク(スカラ座バレエ「ドン・キホーテ」、2014年収録)では端的な芸術性──古典的抑制からにじみ出る品──が示されたが、舞台ではわずかに名残が認められたに過ぎなかった。造形が微温的だったことが美を感じなかった最大の要因だと思っている。

 

ドリアードの女王を踊ったのはニコレッタ・マンニ(Nicoletta Manni)。彼女はスカラ座バレエのプリンシパルで、別の日にはキトリを踊った。

彼女はとても背の高いバレリーナだ。出演したバレリーナのなかで最も背が高かっただろう。四肢は長く肉体は引き締まっている。技術も申し分なく、造形性があり、脚も高く上がる。ここまではディスクでも確認できたことだ。そこから先の芸術性が分からなかった。

登場で目を引いた。バデネスや他のスカラ座バレリーナが特に背が高いわけではなかったこともあるだろうが、強い存在感をもって現れた。そして踊り。彼女の脚は充分に高く上がるのだが、そのかたちとも相まって、空間との有機的連関は控えめだった。しかしかえってそのことが彼女の踊りに硬質を与えていたようだ。それは引き締まった肉体──骨の存在はあまり意識させない──と共振するものだった。

 

キューピッドを踊ったのはアントネッラ・アルバノ(Antonella Albano ソリスト)。彼女は小柄なバレリーナで特別細いわけではなかった。踊りはぎこちなさとは一線を画した硬質な造形性が特徴だった。

 

ストリート・ダンサー(街の踊り子)とファンダンゴソリストを踊ったのはヴィットリア・ヴァレリオ(Vittoria Valerio ソリスト)だ。彼女は比較的小柄なバレリーナだったが、踊りは端的に造形性が高かった。それはディスクからも読み取れたことで、実際そうだった。大味に陥ることなく肉体に奥行きのある立体性を与えるのだ。舞台ではその「語りかけるような」細やかさよりも、造形感が際立っていた。ちなみに彼女はこの3月にスカラ座でキトリを踊り、日本公演に先立って行われた中国公演ではジゼルを踊ったようだ。

 

二人のキトリの友人は、ルーシーメイ・ディ・ステファノ(Lusymay Di Stefano コール・ド・バレエ)とデニース・ガッツォ(Denise Gazzo 同)が踊った。二人とも同じくらいの背の高さで、決して高いというわけではなかった。

ディ・ステファノは細く、四肢、そして首の長さが目立った。確かで安定した造形性を示し、肉体の特徴がそれをより明瞭なものとしていたようだ。二人で踊ったためガッツォは肉体的にも踊りの面でもやや丸みが強調された感があったが、造形性は認められた。ちなみにディ・ステファノはマンニ、ヴァレリオとともに中国公演でジゼルを踊ったようだ。

 

ブライズメイド(花嫁の付き添い)を踊ったのはヴィルナ・トッピ(Virna Toppi ソリスト)。彼女の肉体はクリームチーズのような質感をしていて、首と胴がやや長く、相対的に四肢がやや短く見えた。特に腰をかがめるときなどはそのことが強調された。彼女も肉体性と芸術性が緊密なバレリーナで、肉体の在り方が踊りの仕方を規定し、踊りの仕方が肉体の在り方を強調するようなバレリーナだった。スカラ座のダンサーでは、マンニ、ヴァレリオに並んで特に味わい深い踊りのバレリーナだった。

 

群舞。規模の大きいものではなかったが、群舞特有の芸術性が感じられた。まず一人ひとりのバレリーナの踊りの質が高く、目に入ったほとんどの踊りに造形性が認められた。そして全体として観ると、踊りの古典的抑制から醸し出されるある種の雰囲気をまとっていた(それを仮に優雅さと形容してもいいかもしれない)。

ソリストと群舞の踊りの質から、スカラ座バレエは芸術性の高いバレエ団だと思う。

 

最後に演奏について。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団デヴィッド・コールマン(David Coleman)が指揮した(彼は3月のスカラ座での「ドン・キホーテ」上演でも指揮を務めたようだ)。大きなミスはなく伴奏の役割を果たしたとはいえるが、技術的にも芸術的にも満足できるものではなかった。音は平板で「音楽」になっていないことすらあった。いかにも音符をなぞるかのような生気のない音を出していたのだ。

 

スカラ座・バレエの来日公演は2013年の「ロミオとジュリエット」以来3年ぶりだという。その時も主役3キャストのうち2つがゲストだったようだ。今回「ドン・キホーテ」を観て、このバレエ団のダンサーたちの芸術性をより広く深く知りたいと思った。そして、芸術的にはすべての主役をスカラ座のダンサーが踊ることは可能ではないかという印象をもった。

スカラ座バレエを観るのも、イタリアのバレエ団を観るのも初めてのことだったが、さまざまに「バレエ」とは何かを教えてもらった。