批評と経済(批評覚書4)
3月30日朝日新聞be。吉増剛造。「出版社や新聞は何行で書いてくれと注文してくるけど、そんな文化産業のシステムも打ち破っていかないといけない。売れるかどうかなんて関係ないのよ。かすみを相手にしてきた詩人の責任感みたいなものだよね」。批評家も、そうだと思う。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
また、以前、j-waveの、秋元梢の番組で、西加奈子が、「多くの人に読んで欲しいけれど、書いている時は、書くことに集中している」旨、言っていたように、思う。https://t.co/Oo7Qa1CI2b
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
詩人や批評家、小説家が、世界や芸術に対して、如何なる責任を負っているかは、書かれたものを、読めば、分かる。彼ら/彼女らは、正に、そのように、生きているし、正に、そのような理由から、芸術や言葉を、必要としている。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
西さんが言うように、「本当に好きだったら書いている」。しかし「言葉は『祝福』でもあるけど『呪い』でもある」。「そこには、『怖い』とか『儚い』とかいろいろな要素があるはずなのに、『美しい』という言葉にあてはめてしまうこと」は「下品」。だから、そこに、言葉の「せめぎあい」が、起こる。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
皆がみな、言葉に、祝福される/呪われるわけではない。しかし、その、言葉の、両義性を、感じ、忘れないことは、出来る(はず)。しかし、社会は、往々に、それを、忘れるよう、強いる。そういう意味でも、劇場は、必要。劇場は、言葉の、光と影を、生み、守る。「言葉」に蓋する国は、恥ずかしい。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
西さんの、短編と長編の、捉え方が、興味深い。「長編は自由なので、…物語のほうから動いてくれることがあって、委ねられるというか。…でも短編だと、今回は枚数を決めて書いたので、… (登場人物を)コントロールするのがすごくしんどいんです」https://t.co/KsQhIxWZJh
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
例えば、「40行の批評」/「140字の批評」ばかり、書いていると、いつの間にか、そのような目で、舞台を観、音楽を、聴くように、なるかもしれない。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
西「私は締切が苦手なタイプ。だから連載ができないんです」。「たとえば午前中に何枚とか予定を立てちゃうと、クリアできなかった時の罪悪感がすごいので、一切決めないです。それでできる時にやるようにしたら、楽になりました」。 https://t.co/fCa1BebZef
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
西さんは、「「長編は自由な状況でやらせてもらっていたので、このままでは自由過ぎてよくないのではないか」と思い、あえて苦手な短編に挑戦した」という。そして、「短編作品を書いていると「長編だったら書けるのに」と思うことがある」という。ブログとツイッターの関係も、似ているかもしれない。
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
吉増は、手書きの「豊かさ」を指摘する。また「心に入れ墨をするように」、物事に触れてきた。かつて、舞台を観た感想を、紙に、万年筆で、書いていると、自分の皮膚を、針で、掻き、出血させているように、感じた。では、なぜ、赤くなく、黒いのか、と問うと、それは、何かものかへの、追悼からだった
— unamateur (@amachan_taste) 2019年5月4日
いま、ロンドンでは、「書くこと」をめぐる、展覧会が、開かれているらしい。
「書くこと」は、常に、‘ 危機的な ’、営みだったのだろうか。
Writing on paper by hand, he said, “is so very different to typing or texting on a screen. It’s slower, deeper, more reflective, more real.”
Will the future of written expression become so simple — a smattering of autocompleted sentences, emoji and GIFs — that it will lack any critical thought at all?