op.1

ballet/orchesrta/criticism

川瀬賢太郎指揮、勅使川原三郎演出、神奈川フィルの《魔笛》を聴く

3月18日、神奈川県民ホールで、川瀬賢太郎指揮、神奈川フィルハーモニー管弦楽団(Kanagawa Philharmonic Orchestra)による、モーツァルト作曲《魔笛》を鑑賞した(神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2017)。全2幕。演出・装置・照明・衣裳は勅使川原三郎。原語(ドイツ語)上演だが、台詞はカット、日本語のナレーションにより物語は進行し、KARASの佐東利穂子がこれを担った。また、演出にはダンスが入って、佐東のほか、東京バレエ団(The Tokyo Ballet)から、男女8名ずつ、計16人のダンサーが参加した。2回公演(ダブル・キャスト)の初日だったが、11日には大分で、この日と同じキャストによって、先に上演されている。なお、当演出は、2016年9月、あいちトリエンナーレ2016において初演された(ガエタノ・デスピノーサ指揮、名古屋フィルハーモニー交響楽団、名古屋)。それでは、舞台の感想を述べていこう。

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序曲が始まる。幕は下りたままだ。私は耳を傾けながら、驚きを禁じ得なかった。音楽が「かたち」をつくっていたからだ。音が起(た)って平板でなく、濛昧(もうまい)としていない。つまり、造形感覚をもって音楽が構築されている。私のごく限られた経験からいって、その有無は、来日公演を行う海外の、いわゆる一流と呼ばれるオーケストラと、日本のオーケストラとを分ける顕著な傾向で、音楽の、造形への配慮は、「クラシック音楽」にとって、欠くことのできない条件であるように感じてきた。神奈川フィルの演奏する《魔笛》にはそれがある。よくよく聴いてみると、芸術性が高く、独創性も明らかだ。私は目を閉じて聴き入った。もうすぐ幕が上がる。しかし、目を開けようという気にはならない。演出が目的でこの公演に足を運んだはずだ。そしてそこから、「オペラとは何か」を窺うつもりだった。でも、腑に落ちてしまった。美しいモーツァルト。それ以上に、何が必要だろう?

 

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音楽はまず、音色が硬質だ。また、木管を中心に、やや潤いの欠けるきらいがあるが、透明感もある。技術も申し分ない。そして、音の出し方、歌い方が丁寧。演奏に無理がなく、過不足なく、ゆとりをもって、 音を空間に置いてゆく。その身振りは一貫して洗練されている。音量はやや少なかったかもしれないが、それがかえって、音楽に品をもたらしていた。

ユニークな造形は、堅固なもの、というより、多くの部分で、硬質な線が、生き生きと撥ねるようにかたちづくられる。それは時折、新芽の息吹のように感じられて、初々しい。大きい音と小さい音の幅を広くとって、立体感を強めてもいた。また、音楽が比較的ゆったりすると、緊張していた音色がにわかに緩んで揺らぎ、ほのかに色香をただよわす。この対照美は、神奈川フィルと川瀬との、芸術的な融合の産物であるが、文字通り、指揮者のリードによって達成された、創造的な芸術だろう。この公演の四ヶ月前、同じ会場で、ウィーン国立歌劇場の《フィガロの結婚》を聴いた。指揮はリッカルド・ムーティ。それが「ベッドの中できくモーツァルト」だったとすれば、川瀬=神奈川フィルの《魔笛》は、「テーブル越しにきくモーツァルト」。創造性の強度では差はあるものの、その独創性、芸術性の高さにおいて、両者を比肩させることに違和感はない。

川瀬(彼は2014年より神奈川フィルの常任指揮者を務める)は公演のチラシに、次のような言葉を寄せている。「音楽家にとって(少なくとも僕には!)モーツァルトを演奏する喜びは何事にも代えがたい幸せな事です。[…]魔笛─『魔笛』では闇と光が描かれています。光が無いと闇は生まれない。逆に、闇がないと光は生まれないのです。闇=悪なのか?光=善なのか?全ては共存し合っているから世の中とは興味深いのです。現代の社会もしかり。その中で「愛」を信じて、今置かれている現状からそれぞれが必死に羽ばたいていく。[…]最後に、モーツァルト万歳!!」。これを裏付けるような演奏だったと思う。

 

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歌も、三人の童子(女声)から合唱(二期会合唱団(Nikikai Chorus Group)、合唱指揮:大島義彰)に至るまで良質で、オーケストラと調和していた。夜の女王を歌った安井陽子は、声の音色が滑らかで、歌の造形に余裕を感じさせた。パミーナの嘉目真木子は傑出していたように思う。音色はむらなく、つややか。そして「深い」。その深みは、どこに届いているのだろうと感じさせるほどに深く、歌のふちから、飽和した官能が、ぷんと放たれる。成熟が若さであるような、あるいは、若さもまた、ひとつの成熟であるような、そんなパミーナだった。

 

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冒頭に掲げたオペラ観はあくまで、モーツァルトの美がその時、私に促した一つの態度に過ぎず、正しさを主張するものではない。勅使川原は、演出という方法によって、《魔笛》と向き合った(KARASのHPによると、彼はこれまで、《トゥーランドット》(1999年)、《ダイドとエネアス》(パーセル、2010年)、《エイシスとガラテア》(ヘンデル、2011年)の3作品を演出したことがあるという。また、2015年には、藤倉大の《ソラリス》(初演)を演出している)。そのうち、台詞のカットとナレーションの導入は、舞台を見ていなくとも関わりのある、演出部分だった。彼はその意図を、公演チラシのなかで次のように述べている。「台詞を客観的な言葉に置き換え、演劇的要素をむしろ省いて、身体表現で内容をもっと豊かにするということを目指す方が、歌という芸術的な表現に集中できるのではないか、音楽や歌唱が引き立つのではないか、と思いました」。勅使川原が焦点をあてているのは、《魔笛》の劇としての側面ではなく、音楽だ。確かに、ドイツ語の歌は、第三者(とは純粋には言い切れないのかもしれないが)による日本語のナレーションに挟まれて、新鮮に響いたし、作品における、音楽の占める位置を強調する効果もあったと思う。彼の演出は第一に、観られることを想定していただろうが、音楽に対して、端的な姿勢をとった者の耳──「歌という芸術的な表現に(極端に)集中」した者の耳──にさえ、創造的だった。その立場から、この《魔笛》演出は、審美的に優れた、大胆なモーツァルト解釈、オペラ理解だったということができる。

(今となっては知る由もないが、「演劇的要素」から遠く離れて、音楽を中心に据えた「身体表現」の「豊かさ」のうちに、彼のオペラ観が最も濃厚に現れていたはずである。勅使川原は、「オペラですから、音楽と歌がメインなことは確かです。しかし、歌だけではなく、音楽に調和した身体表現や空間、装置も衣裳も含めて、全体としてダイナミックに、パワフルに感じられるよう演出したい」とも述べている。私は舞台に接する前、劇場を支えるもう一方の古典芸術、バレエから、その技法を身体化したバレエ・ダンサーたちが起用されたことに、彼のオペラ観を読み解く鍵があるような気がしていた(勅使川原はかつて、パリ・オペラ座バレエのオーレリ・デュポンをむかえた《睡眠─Sleep─》という作品において、ダンスによって、「バレエとは何か」を逆説的に──「日蝕」として──示したことがある(2014年、東京))。)

 

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劇場に足を運ぶまで、オペラはわからない、と改めて思う。振り返れば、「裏切り」を伴わずに、音楽が美しかったためしはない。勅使川原はプログラムの「演出ノート」にこう記している。「陰気な闇に輝く太陽と世界の果てが、永遠ではなく巨大な空洞と断崖絶壁ではないかと思わせてくれる開放感。それはオペラそのものではないですか。いや、それこそ人間ではないですか」。そう、〈私たち〉を照らすオペラの美は、断崖絶壁の、一寸先の闇から、突如として現れ、消えてゆくのだ。