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パリ・オペラ座バレエ来日公演《ラ・シルフィード》を観る

3月4日、パリ・オペラ座バレエ(Ballet de l'Opéra national de Paris)、3年ぶりの来日公演に足を運んだ(東京文化会館)。演目は、ピエール・ラコット版《ラ・シルフィード》(全二幕)。1832年パリ・オペラ座で初演された、フィリッポ・タリオーニによる振付けを原案とするヴァージョンだ。音楽は、ジャン・マドレーヌ・シュナイツホーファー。ラ・シルフィードをリュドミラ・パリエロ(Ludmila Pagliero)、ジェイムズをジョシュア・オファルト(Josua Hoffalt)が踊った。ダンサーを中心に感想を述べていこう。

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パリエロはアルゼンチン出身のエトワール(オペラ座のダンサーは、上位から順に、エトワール(Étoile)、プルミエ・ダンスール(Premier Danseur)、スジェ(Sujet)、コリフェ(Coryphée)、カドリーユ(Quadrille)の五階級に分かれている)。細いダンサーだ。踊りには造形性が認められたが、むらがあった。それは、造形感覚に大きく欠けるといってよいほどのむらだった。シルフィードの振付けには流れるようなところがあり、控えめに古典的だ。だから、かたちをつくろうとすると、どうしても繊細にならざるをえないだろう。いきおい、崩れやすくもなるだろう。彼女のシルフィードは、かたちが大部、流れにさらわれていた。あるいは、流れにのれず、腕が「棒」に硬直してしまうことも、まれにだがあった。肉体を朦朧と閉じようとするその踊りを、バレエと思うことはできなかった。

オファルト(エトワール)は先ず、技術が低かった。そして、比較的太くみえる胴が硬く「幹」となり、踊りを縛っていた。だから、四肢がどこか、肉体に付属するもののように動いてみえ、全体として不自然な踊りだった。パリエロとのパートナリングも評価できなかった。彼女(シルフィードは空気の精だ)を持ち上げながら横に移動させると、いかにも重力を感じさせる。それは解釈の限度を超えているように思われ、美しくなかった。また最後の場面、ジェイムズがシルフィードにショールを巻いても、片方の羽が落ちず(もう片方の羽は、登場早々落ちてしまった)、彼は無表情にそれを取って床へと投げた。アクシデントで仕方なかったのかもしれないが、醒めてしまった。

エフィーを踊ったのはスジェのオーレリア・ベレ(Aurélia Bellet)。シルフィードのパリエロと比べて背はやや低く、肉づきもよい。彼女も踊りの造形性が一貫しない。それは、パ・ド・ドゥを踊ったジェニファー・ヴィソッチ(Jennifer Visocchi コリフェ)、マルク・モロー(Marc Moreau スジェ)も同様だった。二人のバレリーナは、脚を前に出すと有機的で魅力的なのだが、踊りの美とは距離がある。ちなみに三人のうちでは、ヴィソッチがよりよかった。

群舞にも芸術性を感じることはできなかった。第二幕のシルフィードたちの踊りになると、ややよくなるものの、統一感がない。かたちのバランスが悪く、音楽にも合っていないのだ。ダンサーの技倆(ぎりょう)も決して高くない印象を受けた(中には他についていけず、振付けを端折ったバレリーナもいた)。

 

演奏は東京フィルハーモニー交響楽団(Tokyo Philharmonic Orchestra)。フェイサル・カルイ(Fayçal Karoui)が指揮を担当した。音の線と音色は滑らか。技術は必ずしも高くはなかったが(例えば、時々音がずれる)、伴奏の役割は果たしたと思う。このオーケストラはバレエ公演以外だと、2014年に《ドン・ジョヴァンニ》を聴いたことがある(新国立劇場。指揮:ラルフ・ヴァイケルト)。芸術性への基本的な認識はその時と変わらない。音楽がほとんど平板なのだ。つまり、造形感覚に乏しい。あえて立体性を排するような演奏なら、かたちへの意識に貫かれて「クラシック音楽」と思わせるのだが(例えば、サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ベートーヴェン。2016年。東京)、そうではなかった。むしろ、かたちをつくる技術に不足しているように感じられた。演奏への違和感を反省すれば、そういうことになるだろう。

 

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事前にディスクを観(オーレリ・デュポン&マチュー・ガニオ。2004年)、特にラ・シルフィードをはじめとする、シルフィードたちの振付けから、オペラ座的な美学が示されることを予感していたが、外れてしまった。